石 門 心 学・商 人 道
日本的経営の原型

財政 危機
政府の借金ゼロ
信用 創造
バブル経済
GDP
税の源泉
デフレからの脱却
日銀による意図的デフレ
オズの魔法使い
金貨供給量・金本位制
石門心学・商人道
日本的経営の原型


見えないがゆえに「商業の仲介機能」を軽視する風潮は、江戸時代にも見られました。

士農工商の身分制度で最下層に位置付けられ、自信を失っていた商人達に商人の道を説き、また、市場価格のSekimon変動や流通、経済の仕組みを見抜いて、企業のあるべき姿を合理的に打ち立てた先駆者、それが
石田梅岩です。

石田梅岩の著書であり、わが国の全ての経済書・経営書の原型となった
『都鄙問答』は、まさに梅岩の思想そのものを味わえる書物です。今なお、大企業の経営者や財閥のオーナーが「聖典」として愛読し、多くの経営者や企業人を勇気付けています。



石田梅岩


 日本人は「質素・倹約は美徳である」という発想が非常に強い。

 こうした考え方が、私たち日本人の中に浸透したのは、いつ頃からであろうか。

 
独自の日本人論を展開したことで有名な山本七平氏は、その始まりを石門心学の祖、石田梅岩に求めている。

 石田梅岩は、江戸時代の学者で、商家に奉公しながら独学で儒教を学び,その後、町人を集めて無料の講話を始めた。
 
彼は、その講話の中で、当時の世の中(士農工商)で、最も卑しい身分とされていた商人に正当な位置づけを与えている。
 
梅岩によれば、農民は作物を作って禄を得る。武士は主君に仕えて禄を得る。

これと同じように商人は売買を行って禄を得る。これは天下の道理だ。というのである。

倹約第一
 彼の講話は、すでに有力な階級に育っていた商人たちに大きな勇気を与えたことは言うまでもない。

 しかし、彼の思想の核心部分は、その後に続くのである。

 それを山本七平氏の解説から引用してみよう 

 彼は、武士が主君に忠でなく禄をもらっていれば、それは武士とはいえないように、商人も「売り先」への誠実がなければ商人とはいえない、という。いわば

「消費者への誠実」が第一であり、さらに「且第一二倹約ヲ守リ、是マテ一貫目ノ入用ヲ七百目ニテ賭、是迄一貫目有リシ和ヲ九百目アルヤウニスベシ」である。

経費を三割節約して、利益を一割減にするという方法をとれといっているのだ。

そして、「算用極メノ外二無理ヲセズ」に経営すればよいのであり、この際には、ひたすら消費者に奉仕することを心掛けて、欲心を出してはならないのである。

貧欲になると道をはずれるから、必ず倒産する。「奉仕に明けて、奉仕に暮れる」なら、必ず栄えると彼は説くのだ。
 (
『日本資本主義の精神』山本七平 文藝春秋 より)

 つまり、欲心にとらわれず奉仕せよ。そのためには「倹約」が第一であると説いているのである。

実践の人

 石田梅岩は、こうした倹約を自らが実践した人でもあった。

 その様子を弟子が編集した「石田先生事蹟」より見てみよう。

倹約

 先生は衣服について、夏の常着は普通の布で、晴着は奈良の晒木綿、つむぎ冬の平生着は同じく木綿ですが、晴着は紬を召されました。飯は上等の白米を用いられ、粥の類をよく食べられました。

日に一度は必ず味噌汁をつくられ、簡素なお菜一品もつくられて、おあがりになりました。お茶はあまり粗末でないのを平常用いられて、時々煎じた出しからを、おひたしにして召しあがられました。

お米を洗われたとき・一番二番の洗い水は外へ綿に溜めておいて鼠にあたえ釜に残った飯粒は湯に入れて飲み、少しでも釜についた飯粒はよく洗っておいて、雀や鼠の食にあてられました。

お汁の鍋やお椀の類は汁がなくなってから、茶をそそいで洗って飲まれました。

野菜の葉っぱは腐ったのは捨て、枯れかかったのは捨てないで用いられた。

まれに魚類をお買いになられ、その魚は、こあいざこ、また鯨の切れ身、海老じゃこの類でした。

掃除
 
夕方にも、また掃除し、手を洗って、お燈明を献じて、朝のように礼拝をなされました。

四日か五日に一度は、必ず家中を掃除し、柱から敷蹟事居等の拭き掃除をなされました。
(『石田梅岩に学ぶ』寺田一清 致知出版社 より)

質素・倹約は日本人の美徳

 石田梅岩は、「倹約斉家論」を発行した直後の1744年に世を去っている。

 その後、彼の思想は、弟子たちによって
「石門心学」として、広められていったのである。

 石田梅岩の質素・倹約の思想は、現在にも引き継がれている。

 日本は今、世界一のお金持ちと言われている。 

個人金融資産は、1200兆円にものぼり、その約6割が預貯金という形で温存されている。

 こうした事実も、奉仕に奉仕を重ねつつ、質素・倹約を実行するという「石門心学」が導き出した結果なのかもしれない。
 しかし、大量生産、大量消費の時代は、終わりつつある。

 質素・倹約を美徳とする日本人の生き方が、もう一度見直される時代が、そこまできている。
     (TOSS道徳トークライン 心の教育)


石門心学

石門心学とは江戸時代に石田梅岩(いしだばいがん、1685〜1744)が創始した庶民のための生活哲学である。

石門とは、石田梅岩の門流という意味である。 陽明学を心学と呼ぶこともあり、それと区別するため、石門の文字を付けた。 

梅岩は、儒教・仏教・神道に基づいた道徳を、独自の形で、そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で説いた。そのため「町人の哲学」とも呼ばれている。

17世紀末になると、商業の発展とともに都市部の商人は、経済的に確固たる地位を築き上げるようになった。

しかし、
江戸幕府による儒教思想の浸透にともない、商人はその道徳的規範を失いかけていた。 

農民が社会の基盤とみなされていたのに対して、商人は何も生産せず、売り買いだけで労せずして利益を得ると蔑視されていた。

梅岩が独自の学問・思想を創造したのも、そうした商人の精神的苦境を救うためであった。

彼は、士農工商という現実社会の秩序を肯定し、それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど、儒教思想を取り込むような形で庶民に説いた。 

倹約や正直、堪忍といった主な梅岩の教えも、それまでの儒教倫理をベースとしたものであった。 

また、商人にとっての利潤を、武士の俸禄と同じように正当なものと認め、商人蔑視の風潮を否定した。

商業を心で受け止め、日本的経営の原型を築いた思想家「石田梅岩」

価格形成の原理と商人の存在意義を確立

1990年代後半、わが国では
「商社無用論」が叫ばれるようになった。

その背景には、IT産業の成長により、「ITを駆使すれば、売り手と買い手との直接的な情報交換や取引が可能となるために、商社は不要になる」と見なす誤解が存在していた。

だが、実際の流通はそんなに単純なものではなく、商社がいるからこそ価格決定権の分散が行われ、物価が安定的に維持されるのである。

この
価格調整機能は「イマドキの若いモンは会社の宝だ」でも解説されている通りで、商社には他にも、情報機能を生かしてリスクの軽減を図る金融機能コンサルティング機能が備わっており、商社の貢献なくして流通や販売は成り立たない。

見えないがゆえに
「商業の仲介機能」を軽視する風潮は、江戸時代にも見られた。

士農工商の身分制度で最下層に位置付けられ、自信を失っていた商人達に商人の道を説き、また、市場価格の変動や流通、経済の仕組みを見抜いて、企業のあるべき姿を合理的に打ち立てた先駆者、それが石田梅岩である。

石田梅岩の著書であり、わが国の全ての経済書・経営書の原型となった『都鄙問答』は、まさに梅岩の思想そのものを味わえる書物で、今なお、大企業の経営者や財閥のオーナーが「聖典」として愛読し、多くの経営者や企業人を勇気付けている。

なぜなら、本書は「
商業」が「世の役に立つ」ことを証明した日本初の「志望動機」だからだ。つまり、あらゆる仕事の本質は本書の中にある。

梅岩はその中で、
「取引の利益を得ることは商人の道であり、商人の利潤は、武士の俸給と同じものだ」と説き、利益の正当性を一般民衆にも分かりやすく解説している。

当時、不透明で怪しいとされていた商人の利益の合理性を明快に説いた梅岩の思想により、商人達は自らの仕事に誇りを持てるようになった。

また梅岩は、「一定の価格で販売することなく、値引きしたりするのは、商人が利益を貪るためではないのか」という問いに対し、「市場価格の騰落は、天のなすところであって、商人の私的な自由意志によるものではない。

価格が統制されている物品以外は、相場は時々著しく変動するもので、
価格は変動が常態である。

日々の相場に変動はつきもの。だから販売価格は嘘ではない」とし、「取引が成り立たなければ、買おうという人に対し商品がなく、売ろうという人にも売ることができない。

そのようになってゆけば、商人の生活自体が成り立たず、農民か職人になるほかなく、商人が全員農民か職人になれば、財貨を流通する人がなくなり、国民全部が困窮することになる」と説いている。

情報網も発達せず、経済がどのような動きをするのかを見抜く材料すら確認されていなかった時代に、市場価格の変動の原理を説き、感情ではなく論理で国家経済を客観的に捉えていた梅岩の洞察力と先見性は素晴らしい。

商業利益を正当化した点ではベンジャミン・フランクリンより半世紀早く、自由主義経済の合理性を説いている点では、アダム・スミスよりも約四十年も早いというから驚きである。        

「商人道」を説く  梅岩は幼少の頃から正直で律儀な性格で、それは大人になってからも変わることはなかった。

ある時、あまりに理詰めで物事を考え、体調を崩したことを心配した主人が「気晴らしに遊んで来い」と言い、一時は梅岩も遊びに興じたが、回復後も遊んでいた自分をふと反省し、「これは主人のお金を使っている限り、盗みと一緒だ」と考えて、衣類や脇差を売ってまで遊興費を返したというエピソードがあるほどだ。

論理や感情に照らして納得できないことは、誰も見ていなくても不愉快で耐えられない、という梅岩の性格を象徴する逸話である。

梅岩は『
都鄙問答』の中で、「倹約とは、三つの財が必要であったものを二つで済むようにすることだ」説き、必要なものまで出し惜しむ欲である「吝嗇(ケチ)」と倹約の違いを明確に定義した。

また、「富の主人は、この天下の全ての人々だ。最初は金が惜しいと思っても、品物が良いことで、金が惜しいと思っていた心も自然に無くなるものだ。

商人の道とは、惜しいと思う心を満足に転ぜしめることに他ならない。その上、商取引は天下の品物を全国に流通して、全ての人々の心に満足を与える」とし、顧客満足の重要性も説いたのである。

梅岩は、何も新しい思想を打ちたてようと気負ったのではなく、何よりも
「心」を知って聖人の行いを学び、道にかなった人生を歩むべきだと説いた。

「聖人とは、われわれ人間の究極的な人格にほかなりません。

ですから、君子や大徳の人の足跡を学び、これをしるべとして人間の道を教え、誰も天の命ずる職分があることを人に知らせ、自らも勤めてゆけば、身がととのい、家の秩序が保たれ、結局は国家がおさまり、社会が平和となる道理です」。

梅岩の思想は
「至誠」を最高の徳目とし、「莫妄想(とらわれるな)」を戒律とした素朴な教えであるが、富の蓄積が否定されているのではなく、豊かさを求める心が軽視されているわけでもない。

その結論は、頑張れば頑張るほど楽しく、人々も喜び、儲かるという日本独自の経営思想である。

『都鄙問答』を貫く梅岩の誠実さや関わる人々への温かさに触れれば、誰もが「働くこと」の崇高な意義を悟ることができ、先人の大いなる悟りへの感謝を抱くことだろう。


都鄙問答 経営の道と心 (日経ビジネス人文庫)



石田梅岩(1685〜1744年)の生涯と心学 京都学園大学人間文化学部教授:今西 幸蔵

梅岩は1685(貞享2)年9月15日に、丹波桑田郡東懸村(現在は東別院町の一部)で農家の二男として生まれ、呼び名は勘平と称した。

梅岩は11歳になると京都に奉公に出た。最初の奉公の後、父親の命で帰郷し、その後の数年間は実家にいたが、やがて23歳のときに再度京都に奉公に出て、商家の黒柳家で勤めることになった。

23歳になった梅岩は、当時の主流であった儒学ではなく「神道」の勉強を始める。

当時の「神道」は儒教の影響が強く、神儒一致的主張が主流であった。

梅岩は神道の普及を志すような、強い求道心の持ち主であり、奉公をしながらも読書に明け暮れるような律儀な性格でもあった。梅岩35〜36歳の頃、僧の小栗了雲を知ることになる。

1729年、梅岩45歳のとき、現在の車屋町御池の居宅にて初めて心学の講席を開いた。 

その門前には、「無縁にても、御望の方々は、遠慮無く、御通り御聞き成さざるべき候」として、聴講料や人の紹介を必要とせず、誰でも自由に聴講できるという掲示があり、これは「いつでも、どこでも、だれでもが学ぶことができる社会」をめざす生涯学習社会の理念と軌を一にするものである。

梅岩学登場の「事件性」とその意味 京都大学大学院教育学研究科教授:辻本 雅史

梅岩は「儒者」を自称して登場してきた。 そのことは、当時の学問世界には衝撃力を持った「事件」だったはずである。 当時「学問」とは、四書五経などの中国古典の漢文を「素読」(声に出しての暗記)し、かつ注釈類に基づいて解釈する儒学のこと。 漢文はいわば学術の言語であった。 

商家奉公していた梅岩は、講釈を聞き巡る耳学問(声のメディアでの学問形成)だけで、このような儒学の学習過程を経ていない。 だから世の儒者から「異端」「無学」と誹られた。 しかし梅岩は、学問とは経書の知識ではなく、日常直面する諸問題に自在に応答できる根拠が学問であるとして、正しく生きている人こそ「一字不学」でも「学者」だと言い切った。 ここには明確な学問観の転換がある。

梅岩が「学問」を標榜して公開講釈を初めた根拠は、「開悟」体験であった。 開悟により、自己が天地と一体となり、それによって天地に連続する自分の心に絶対的確信が得られた。 

開悟は、文字による学問ではなく激しい「修行」の結果であったから、文字で書かれた儒学の経書より、自ら体験した「心の権威」に確信がもてた。 

ここには文字のメディアへの不信がある。ただ梅岩の講釈は、その熱意の割には、難解だったようである。 弟子も増え、大坂方面にも講釈に出向いてはいるが、その範囲は京都大阪周辺に止まり、後の石門心学が全国化したのに比べれば、限られたものであった。

京都学園大学人間文化学部教授:小嶋 秀夫

石門心学者に基本的に共通しているのは、儒教を基盤として人間を中心に置いた大自然(宇宙)と社会組織の秩序を考えたことである。 

それは、ヨーロッパのとは違うが一種の人間中心主義であり、全存在を秩序づける完結した意味世界を認めていた。 

すなわち、地位・役割・居住地などを異にする多様な人々だけに限らず、太陽も海の魚や山の熊,牛馬も、それぞれの役割を果たして人間に役立っている。 

そのような犠牲・貢献が自分たちの生活を支えていることを人は自覚して感謝すべきだという。それは、人間が他の存在を犠牲にして生きているという罪障感を強調するよりは、むしろ人間中心的な秩序を受容する立場である。しかし、他を一方的に収奪することを是認はしない。 

人間も大きな秩序の中で生かされているという考えが基底にある。 生来の本心に立ち帰れと説く心学の基本思想は,そのような世界観の中でこそ意味をもつ。

当時の文化には、心の在り方に関する多様な考えと実践方法が併存していた。 それらの集合の中から適切なものを取り入れながら理論と実践とを統合させた言説を構成したのは、石門心学だけではない。 

石門心学の特徴は、社会の価値と連帯した自己修養の目標達成に向けての個々の庶民の主体的努力を強調した点と、それを普及させるための運動体を堵庵が中心となって組織したことである。

幕末最後の時期、長州藩は今まで奨励してきた心学を一転して禁止した。 

明治の文部省も心学の普及を喜ばず、むしろこれを解体する方向に動いた。 明治10年代初めに文部省が実施した前近代の教育調査は、意図的に心学舎を無視し、対象外としたがその理由は一体何か、どこにあるのだろうか。

明治10年代初めに文部省が実施した前近代の教育調査は、意図的に心学舎を無視し、対象外としたがその理由は一体何か、どこにあるのだろうか。 心学思想の限界とは?

京都学園大学市民公開講座 石門心学啓発講座より




働くことを日本人の生き甲斐に変えた禅僧「鈴木正三」

思想的イノベーションの先駆者

日本最大の企業「トヨタ」。そのお膝元である愛知県豊田市に、「トヨタ式経営」の思想的開祖として、今なお住民たちがその功績に感謝している江戸時代の禅僧がいる。

西洋人が「エコノミックアニマル」と日本人を蔑んでいた中で、
西洋式の「労働=懲罰」という発想では説明が付かない日本的職業観に興味を持っていた学者、R・N・べラーに「いや、彼らはエコノミック・アニマルではない。

彼ら
日本人の労働こそ、働く喜びを見出した人間的な働き方である」と言わせた禅僧がいる。

鈴木正三こそは、類稀な才能を発揮して戦国の世を生き抜き、後世の私たちの働き方に巨大な影響をもたらした偉人である。

武士として高位に上り詰めた正三は、少年時代から思いやり溢れる子供で、四歳の時に親友が病没したことを深く悲しみ、「死」という不可避の運命のあり方に関心を抱くようになった。

この時、近所のお寺で僧侶の法話を聞いたことが後の人格形成に大きな影響をもたらす。正三が二二歳の時に起きた「関ヶ原の戦い」は悲惨な戦だった。

正三は宇都宮の慧林寺で物外禅師と出会い、人としてのあるべき生き方や、生と死について思索をめぐらす。

正三は二十代後半から持ち前の文才を生かし、少しずつ著作を発表するようになり、三十代は戦と慰霊、修行、執筆を繰り返す歳月を過ごすうちに、戦いの世のはかなさに感ずるところあって四二歳で出家し、本格的に禅の教えを学び始めた。      


武士・僧侶・作家として「マルチタレント」に

機能性と実利を重んじる戦国武士の発想に慣れていた正三は、修行を通じて独特の仏教思想を持ち始める。百年を超す戦乱の世が治まって数年。徳川氏が幕府を築いたものの、当時はまだ民心が不安定で、正三の寺には多くの人々が法話を求めて集まるようになった。

そこで、正三は子供や老人にも分かるようにと、当時流行していた「仮名草子(法話付きの絵本)」を次々と執筆し、人気のベストセラー作家となっていく。武士として世間の実際に通じ、仏教と文章に通じた正三は風変わりな僧侶だった。

正三の説教は誰にも分かりやすい言葉でありながら、誰が聞いても納得する合理性と普遍性を備え、深い思索と幅広い知識に裏付けられた法話は、次々に筆写される人気作となっていった。 

死んだ後は浄土に行きたいが、自分は農作業が忙しく、とても念仏を唱えたり修行したりする時間がない、ならば自分は浄土に行けず、地獄に落とされるのかと悩む農民に、正三は「念仏や修行などする必要はない。

あんなものは本当の仏教ではない。それより、鋤や鍬を打ち込むたびに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱え、地中のミミズたちも喜ぶほどの熱意を持って農業の道に勤しむことが、仏様の願いに適うのじゃ。
農事即仏行なり」と答えた。 

お客の信用を守るために必死の思いで商取引に励んでいたのに、「金儲けは卑しい」と決め付けられてしまったことに悩む商人には、「商人は天下の物財を流通させる使命を持っており、仏様の生み出した万物を、あるべき場所へと運ぶ仕事に勤しむことが、仏様の有り難い教えなのじゃ。

商品を卸すたびに、またお金を頂くたびに南無阿弥陀仏と唱えるのじゃ。
商業即仏行なり」と説いた。

小手先だけ器用であれば、誰にでもできる仕事だと決め付けられて悩む職人には、「仏様のお体から生まれた万物を、天下の人々が望む形に加工し、万民の生活を幸せにする工人は、天下の職人じゃ。

一品できるたびに南無阿弥陀仏と唱え、人々の幸福を願うべし。
物作り即仏行じゃ」と唱えた。

幼い頃から戦乱を見つめ、成人してからは世の中の秩序を見つめ続けてきた正三は、人生を「仏様の心に適うための修行」と位置付け、士農工商の区分は身分の序列ではなく、
社会貢献範囲の分類に過ぎないと考えた。

五十九歳の時に「島原の乱」が起こり、正三は島原や天草で民心の安定に努めた。

その後も諸国を遍歴し、壮大な仏教的世界観と、庶民の実生活に対する豊富な知識、そして何より人々に寄せる温かく誠実な思いやりから、正三は人々に慕われてゆく。

本家の僧侶からは「修行もせず、経典も読まないのに何が仏教だ」と嫉妬され、陰口を叩かれたが、正三はそのような批判を「阿保陀羅経」、「空念仏」と一蹴し、名もなき民や文字も読めない人々を助けるための絵本作りや執筆に人生を捧げた。   


楽しくて、有り難くて、猛烈に働き始めた日本人

何の事業も皆仏行なり。人々の所作にをひて、成仏したまふべし。仏行の外成作業有べからず。一切の所作、皆以世界のためとなる事を知るべし。本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したまふなり。鍛冶番匠をはぢめて、諸職人なくしては、世界の用所、調べからず。

武士なくして世治べからず。農人なくして世界の食物有べからず。商人なくして世界の自由、成べからず。此外所有事業、出来て世のためとなる。唯是一仏の徳用なり。如是有難き仏性を、人々具足すといへ共、この理をしらずして、我と此身を賤なし、悪心悪業を専として、好て悪道に入を、迷の凡夫とはいふなり》

正三の革新的かつ本質的な教えは全国に広がり、人々は仏様の心に適うためにと、猛烈な勢いで働き始めた。人々の幸福を思い、
「働くこと」の意義を定めた正三こそ、我々日本人の「仕事の師」である。



人々の心に火種を灯した再建の指導者「上杉鷹山」

火種を移す

名指導者・名経営者とはどのような人だろうか。定義は様々だろうが、必須条件は「人々にやる気を起こさせ、ビジョンを提示して力強く組織を引っ張っていく人」ではないだろうか。

社員は「会社にとっての宝」である。そして、江戸時代、多くの「石」を珠玉の「宝石」に磨き上げた財政再建のリーダーとして活躍した藩主が、上杉鷹山だ。

鷹山は十七歳の時に米沢藩(秋田県)の藩主となった。当時の米沢藩は莫大な借金を抱え、財政的に破綻寸前であった。鷹山が初めて米沢本国に入った時、国境間近にある賑やかなはずの宿場も廃宿同然で閑散としており、人々の表情は暗く沈み、心も死んだ状態であった。

その荒廃ぶりに鷹山は驚きを隠せず、なんという国に来たのかと絶望した。米沢城に近づくにつれ、連れの家臣たちも「この国を変えるのは、もはやムリかもしれない」と思い始めていた。そんな中、鷹山は傍にあった煙草盆の炭に目を留めると、その消えかかる残り火を見つけて突然、熱心に吹き始めた。そして火が起こったのを確かめる鷹山を怪訝そうに見つめていた家臣達に、次の様に説明した。

「私は、この小さな火種を見てこれだと思った。火種は新しい火を起こす。その新しい火はさらに新しい火をおこす。そしてその火種は誰であろう、お前達だと気がついたのだ。

お前達は火種になる。そして多くの新しい炭に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり藩民のことである。中には濡れている炭もあろう。火のつくのを待ちかねている炭もあろう。一様ではあるまい。ましてや、私の改革に反対する炭もたくさんあろう。しかし、きっと一つや二つ、火をつけてくれる炭があろう。私は今、それを信ずる以外にないのだ」

これを聞いた家臣達の多くが感動し、「その火をお借りして、さらに大きな新しい炭に火を移します。それを私は、お屋形様が言う改革が達成される日まで、決して消しません。家に大切に保存します。同時に、私の胸に燃えている火を、自分の持ち場に帰って仲間の胸に移します」といって、鷹山のところにあった火種は次から次からへと移され、大きな炎となって雪の道を照らしたのである。

鷹山は、灰の中から残り火が再び燃え立つ様子に「米沢藩再興」の希望を見出し、それを行う家臣達にもその希望を託したのである。鷹山は、藩を変えるためには自らが率先して改革に参加しなければならないとして、質素倹約に努め、実際に民衆の様子や状況を自身の目で見ながら、着実な改革案を打ち立てていったのである。    

流動的な人員配置

米沢藩を受け継いだ時に、鷹山は次のような和歌を詠んだ。

受け継ぎて 国の司の身となれば
忘るまじきは 民の父母

この「父母の心になって、領民を一日も早く、精神的にも物質的・経済的にも豊かにして、その生活を安定させてやりたい」という鷹山の決意は、そのままに改革に反映されていき、常に「藩富」ではなく、
「民富」という視点にあった。

その改革には、ただ城に来ては帰るだけの藩士達の組織は不要とし、武士であろうとも
産業育成のために労力を提供することを余儀なくした。これには当然反発もあったが、「形式や外見にこだわって、何もしていないのに取り繕って役人が顔を揃えていても、人間の無駄であって、時間の無駄である。

そして使えば使える労力を、全く鈍らせていることこそ問題だ。
人間は働かなくては生き甲斐を失う

私はただその生き甲斐を一人一人が自分なりに発見して欲しいという道筋をつけただけだ」と語り、新田開発や養蚕・製糸・織物・製塩・製陶などの産業の開発に取り組み、
「原料に付加価値を加えて製品として売る」など、様々なアイデアを持って再建に臨んだのである。(特に、絹織物の生産技術はその後も引き継がれ、現在でも「米沢印」のある絹織物は最高の部類の製品として高く評価されているという)

やがて、鷹山達の努力が実って、農作物が取れるようになり、少しずつ民衆達に活気が戻ってきた。まさに「火種を移せ」という願いが実り始めたのである。

それは、生き甲斐の再発見であった。そして藩士たちは、人のために尽くすということが、いかに自分たちの生き甲斐を強く成り立たせるかを、自ら鍬をふるうことで実感したのである。

「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」は、鷹山の言葉である。

鷹山は、まさにこの言葉通りに米沢藩の財政を立て直し、心に宿した火を打ち消すことなく、次から次からへと灯していったのである。

炎は分けても、減ることもなく勢いが衰えることもない。まさに、鷹山の火種は、時代を超えてもなお、人々の心に宿し続けているのである。

将来を悲観しがちで感情の浮沈が激しく、散発的な現象に左右されやすい学生時代にこそ、ぜひとも学んでおきたい偉大な指導者である。

大月舞の偉人講座【第18回】2008.2.9【第19回】2008.2.23【第20回】2008.3.1




構造主義とポスト構造主義その14

小室直樹と山本七平には密接な交友関係があったことが知られているが、山本の著作を読みはじめたのも、そういった理由による。

橋爪 その点で注目すべきなのが、山本七平さんの『勤勉の哲学』(PHP文庫)です。この「解説」を、小室さんが書いています。解説と言っても、本体に匹敵するほどの大論文で、相当に読みごたえがある。

この本は、副題を「日本人はなぜ働くのか」といって、日本の資本主義を支えている 勤労のエートスを、鈴木正三(すずきしょうさん)、石田梅岩(いしだばいがん)、といった江戸時代の宗教思想家の思想のなかに探ろうという書物です。

ここで浮き彫りになってくるのが、労働そのものを神聖な義務と考える、日本独特の勤労観です。世俗的な労働それ自体が、そのまま言うなれば宗教的な儀礼になっているのです。

(小室直樹の学問と思想 橋爪大三郎・副島隆彦著 159p 弓立社)

まず引用するが、直前に「次に引用しよう(〔問〕〔答〕は原文にはない。原文に改行はない)」とあるので注意してもらいたい。

農人日用
〔問〕農人問云(といていふ)、疎ならずといへども、農業時を逐(お)って隙(すけき、暇)なし、あさましき渡世の業(なり)をなし、今生むなくして、未来の苦を受べき事、無 念の至なり、何として仏果に至るべきや。 〔答〕答云(こたえていふ)、農業則仏行なり、意得悪時は賤業(せんぎょう)也(なり)。 (以下略)
(勤勉の哲学 山本七平著 69p PHP文庫)

職人日用
〔問〕職人問云(といていふ)、後世菩薩大切の事なりいへども、家業を営に隙(すけき、暇)なし、日夜渡世をかせぐ計なり、何としてか仏果に至るべきや。
〔答〕答云(こたえていふ)、何の事業も皆仏行なり。(以下略)
(同上 71p PHP文庫)

商人(あきひと)日用
〔問〕商人問云(といていふ)、たまたま人界に生を受といへども、つたなき売買の業をなし、得利を思念、休時なく、菩提にすすむ事叶わず、無念の到なり。方便を垂れ給へ。
〔答〕答云(こたえていふ)、売買をせん人は、先得利の益(ます)べき心づかいを修行すべし。(以下略)
(同上 72〜73p PHP文庫)

山本は、ここを起点にして日本的資本主義の精神や石田梅岩の思想へと展開させていく。だが、冷静に考えてみれば、どこかおかしい。

農民は忙しくて仏教をしている暇がありません、といい、正三はこれに答えず「農業 則仏行なり」だと答える。職人もおなじように家業に忙しく、仏教をしている暇がありませんという。正三はふたたび答えず「何の事業も皆仏行なり」という。商人についてもおなじで、売買をしているので休む時がないのだという。

農民、職人、商人は、なぜ暇がなく、休む時がないのだろうか。

朝から晩まで働いているからだろう。これに対して正三は、何をいっているのか働いていないではないか、といっていない。あんなものは労働のうちに入らないなどと、否定 もしていない。認めざるを得ないということだろう。農民、職人、商人は働いていることを自認し、正三は了解しているということになるのではないか。

この本のテーマは、「日本人はなぜ働くのか」のはずである。当然、働く理由を探そう、ということだと思われる。ところが、農民は「農業則仏行なり」と聞く前から働いていて、商人は「何の事業も皆仏行なり」と聞く前から働いている。ここをいくらほじくりかえしても、日本人がなぜ働くのかという回答は得られないハズである。

もともと、農民や職人、商人が働いておらず、「農業則仏行なり」や「何の事業も皆仏行なり」という話を聞いて働くようになったのなら、山本のいっていることは正しい。ところが、この問答を読む限り、そうではない。日本人が働くことと、「農業則仏行なり」や「何の事業も皆仏行なり」は、何の関係もない。そういう結論にしかなり得ない。

すなわち山本の主張とは正反対の結論が、すでに問答に提示されている。(比較文化史の試み 186)



日本でいちばん大切にしたい会社

「会社経営とは『人に対する使命と責任』を果たすための活動」であるとして、経営の目的を以下の5つに定めています。
1 社員とその家族を幸せにする
2 外注先・下請企業の社員を幸せにする
3 顧客を幸せにする
4 地域社会を幸せに、活性化させる
5 株主を幸せにする


◆第1部 会社は誰のために?  ◇「わかっていない」経営者が増えている!
  ◇会社経営とは「人に対する使命と責任」を果たすための活動
  ◇業績ではなく継続する会社をめざして
  ◇業績や成長は継続するための手段にすぎない
  ◇社員は利益だけを求めているわけではない
  ◇「多くの人を満足させる」こと。それが会社の使命
  ◇経営がうまくいかない理由は内側にある
  ◇中小企業にしかできないことがある
  ◇日本で大切にしたい会社を増やそう
  ◇続けていくことの大切さ


◆第2部 日本でいちばん大切にしたい会社たち ★1 障害者の方々がほめられ、役立ち、必要とされる場をつくりたい
   
 日本理化学工業株式会社   ◇社員の七割が障害者の会社
   ◇「私たちが面倒をみますから」
   ◇誰でも何かの役に立ちたい
   ◇人を工程に合わせるのではなく、工程を人に合わせる
   ◇多くの企業が逃げている現状
   ◇「おれたちまでおかしいと思われる」
   ◇新製品の開発に向かって
   ◇みんなが支えてくれる会社づくりを!
   ◇消費者にできることがある
   ◇五〇年の歳月の重さ、あたたかさ
   ◇社員の家族が喜ぶ会社
   ◇世代から世代へ受け継がれていく志
   ◇気配りには気配りで応えたい
   ◇自分たちにできることを考えよう


★2 「社員の幸せのための経営」「戦わない経営」を貫き、四八年間増収増益
    
伊那食品工業株式会社   ◇四八年間増収増益という驚異の会社
   ◇斜陽産業のなかでも成長は続けられる
   ◇「いい会社をつくりましょう」
   ◇会社は社員の幸せのためにある
   ◇地を這うような伸びでいいから継続することが大事
   ◇「お客様の希望に応えてあげてください」
   ◇自社で考え、自社で創って、自社で売る
   ◇敵をつくらず、オンリーワンに
   ◇常に工夫し、未来に投資する
   ◇一〇〇年カレンダーを貼っている意味
   ◇会社の原動力は経営者で決まる
   ◇一人の社員も危ない目にあわせない
   ◇市民が憩う、開かれた会社
   ◇公園に通学路……「これが会社の敷地なの?」
   ◇朝早く掃除、休みを利用して植木の手入れをする社員たち
   ◇「こんな会社、初めてです」バスガイドも感激
   ◇社内のおみやげコーナーでの心配り
   ◇通勤中でも買い物中でも気配りを忘れない社員たち
   ◇目先の利益よりも継続を心がけて


★3 「人を支える」会社には、日本中から社員が集まり、世界中からお客様が訪ねてくる
   
 中村ブレイス株式会社   ◇日本でいちばん辺鄙な場所にある会社
   ◇大都市から就職しにくる若者たち
   ◇人を支える社長の信念
   ◇過疎が進む故郷で、たった一人の創業
   ◇初めての社員は出社拒否?
   ◇両足をなくしたモンゴルの少年の手助けを
   ◇「あなたの席を空けて待っています」
   ◇「休みなんかいらない!」社員たちの熱い使命感
   ◇必要なものを必要としている人に・・新しい製品の開発
   ◇世界に一つしかない本当の物づくり産業を
   ◇責任が重く手間がかかる仕事から逃げている企業
   ◇リーダーとは、人への思いが強い人

★4 地域に生き、人と人、心と心を結ぶ経営を貫いていく
   
 株式会社柳月   ◇「お菓子の町」帯広にこだわる会社
   ◇泣いている子を笑顔にさせるお菓子の魅力にとりつかれ
   ◇最低限の生活を維持し、すべてを開発にかける
   ◇「五つの使命」に忠実に従った経営活動
   ◇お客様から愛される、心を結ぶ会社
   ◇おいしさが二人を近づけた縁結びの菓子
   ◇教育も経営も基本は「感動」
   ◇競争率一〇〇倍! 学生も殺到するその魅力
   ◇三万四〇〇〇平方メートルのスイートピア・ガーデン
   ◇同業者もいっしょに盛り立てる
   ◇「心を結ぶ」という原点を忘れない会社


 ★5 「あなたのお客でほんとうによかった」と言われる、光り輝く果物店
  
  杉山フルーツ   ◇さびれた商店街に輝く右肩上がりの小さな店
   ◇やって来た婿養子
   ◇「このままでは店がつぶれる!」昼行灯、目覚める!?
   ◇生き残りをかけた改革
   ◇お客様の都合に合わせた結果の「年中無休」
   ◇高価なメロンが年に八〇〇〇個も売れてしまう
   ◇故郷の母にコミュニケーションとなる果物を
   ◇若い二人の門出にそえた、採算度外視の贈り物
   ◇「あなたのお客でよかった」と言われる経営
   ◇小売店からメーカーをめざして商品開発にも注力
   ◇杉山フルーツが教えてくれること





優良企業には、共通して愚直とも言うべき「ものづくりへの真摯な姿勢」があるのです。

経営学で流行の「顧客満足志向への転換」などというスローガンに飛びつく前に、自らの仕事、製品に対するこだわりが、「製品についての誇り」と「顧客満足を最大化」しようとする姿勢に自然につながっています。

一つのことに打ち込んで究める。

誇りがあるからこそ、製品設計開発の擦り合わせから、不良品についてのアフターサービスに至るまで、厳しいユーザーニーズに対して一貫して迅速な対応を行う。

従業員全員が一丸となって顧客満足、品質第一といった理念を共有しているから、何かトラブルがあっても条件反射のように対応できるのです。

こうした感性、職業観はどうして育まれたのでしょうか。

故山本七平氏は、「勤勉の哲学」、「日本人とは何か」など一連の著作の中で、日本人が古くから「自然の秩序」に従って生きるという思想を持ち、そこから儒教、仏教という外来信仰を融合折衷しながら神儒仏の三教合一論へと進み、さらに徳川時代に、鈴木正三、石田梅岩に代表される宗教家、思想家によって「一意専心」、「何事も即仏行」、「職業に貴賎なし」といった職業観が形成されたと述べます。

すなわち、「自然の秩序」といった民俗的な日本の心情と宗教観をベースにしながら、自然の秩序の中で、自ずから人それぞれに定められた相応しい仕事があり、働くことで精神的安定と充足感が得られるとする職業倫理、
「日本的資本主義の精神的基盤」が形成されたと指摘します。

山本氏は、こうした職業観、倫理観がもともと日本にあったからこそ、明治維新以降、西欧から急激に導入される資本主義や会社組織、先進的な機械文明に対しても、
「掘り起こし共鳴現象」を起こすことで、抵抗なく受容し、さらに「和魂洋才」の言葉に象徴されるように日本型のアレンジまで加えた上で、自らのものとして、円滑に近代化を進めることができたと述べています。

そして、山本氏は、日本人の職業観、倫理観と、
マックス・ウエーバーが指摘するプロテスタンティズムの倫理とのアナロジーを指摘しています

マックス・ウエーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、ベンジャミン・フランクリンに代表される、禁欲的な生活態度を保ちつつ、正当な利潤を使命(すなわち職業として)として組織的かつ合理的に追及するという「資本主義の精神」の起源をプロテスタンティズムに求めました。

金銭欲は貨幣経済が始まって以来本質的に人間に内在するものですが、カトリック教の教理では、営利を自己目的とする行為は根本的に恥辱であり、現存の社会秩序がただ止む無くそれを寛容しているにすぎず、営利的行為により蓄積された富は、本来は「良心の代償」として教会に寄進されるべきものでした。

しかし、ルターに代表されるプロテスタンティズムでは、
「世俗内義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であり、これが、そしてこれのみが神の意志であって、従って正当な職業は全て神の前に全く等しい価値を持つ」と考えます。

そして、プロテスタンティズムは、「目的としての富の追求を邪悪の極地」としながらも、「職業労働の結果としての富の獲得を神の恩恵」と考え、奢侈的な消費を戒める一方、営利を開放することで、禁欲的節約強制による資本形成が進むのです。

そしてウエーバーは、「利得したものの消費的使用を阻止すること」は、「投下資本としての生産的利用を促さずにはいなかった」と指摘しています。

山本氏は、戦国時代武士として生き、その後禅僧となった
鈴木正三が説いた世俗的な職業倫理としての「万民徳用」という世間法の中に、「世俗的行為は宗教的行為である」というプロテスタンティズムと共通の発想がみられると指摘しています。

正三は、「農業則仏行なり」、「何の事業も皆則仏行なり」と説き、「分業は、本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したもう」ためであり、「武士は秩序維持、農人は食量、職人は必要な品々の提供を、商人は流通をそれぞれ担当するのが宗教的義務になる」(「勤勉の哲学」P73〜74、PHP研究所、1979年)と説きます。

こうして「職業に貴賎なし」、「一意専心」それに従うことが仏行であり、働くことで精神的安定と充足感が得られるとする職業倫理が確立していきました。

そうした職業観は「道」という考え方に通じます。

さらに、正三は、利潤を目的とせずただ一心不乱に仕事をしていれば結果として収入増となり、利潤が生まれるとも説いているのです。

こうした正三の思想は、徳川時代、石田梅岩による
「石門心学」に継承されました。

石田梅岩も、人々の職分を説き、人々がそれぞれの職業を全うすることに、「天下ヲ治ル相(タスケ)トナル」、大義があるとしました。

さらに、
注目されるのは、石田梅岩が、吝嗇とその動機である貪欲とは区別して、消費の倫理としての「倹約」を説いたことです。

これは、プロテスタンティズム、わけてもピューリタンティズムにおける「世俗内禁欲」と一致
します。

それは当時奢侈と浪費によって多くの商家が没落する時代的背景があったからでしょう。「何の事業も皆仏行なり」で一心不乱に働き、倹約は秩序の基本ということでこれを守れば、資本は否応なく蓄積されます。

この
石門心学は、草の根の処世訓として、武士よりも町人、農民といった広く民衆に浸透していきました。

こうした考え方はもはや過去のものでしょうか。

確かにかなり風化しつつあることは間違いありません。

しかしながら、潜在意識として、「職業に貴賤なし」、「努力」、「一意専心」、「道」といったものを尊ぶ文化は根強いものがあるのではないでしょうか。

この点について次回さらに考察を深めたいと思います。             

石本憲彦氏の「志本主義のススメ」


鈴木正三の功績 2003/11/04(Tue)

私もそうでしたが、鈴木正三(しょうさん)が偉大な人物であることはあまり世の中に知られていません。

山本七平氏は鈴木正三について次のように語っています。

「正三は日本の近代化に最も大きな影響を与えた思想家であり、その点では、日本の近代化による世界への影響を通じて、世界に最も大きな影響を与えた日本人の一人ということができる。

それでいながら世界はその存在を知らず、当の日本に於てさえ、彼は、一般には名の知られた存在ではなかった。

考えてみれば、不思議な現象である。だが、いずれにせよ間接的には世界に影響を与えていることは否定できない。

ということは、認められているか否か、という点を無視すれば、彼は、単に日本の思想家であっただけでなく、世界に通用する思想家であったということである。」

何故それほど日本の近代化に影響力ある人物なのか、ということですが、それは勤労の精神を大衆に植えつけたからです。

トヨタを生んだ三河の地(足助町)で、民衆に
「仏道の修行とは毎日の仕事の中にある」と説いたのです。

「豆腐屋なれば、一丁の豆腐を心を込めて作ること、人々に喜んでいただけるようなおいしい豆腐を作ること、そこに仏道の修行がある」と(多分)説いたのです。

勤労は己を磨く道であるという考えを、三河の地で根付かせた功績を言っているわけです。

一方、
勤労をペナルティーと考えていた西洋社会で近代資本主義が成立できたのは、カルヴァン(1509-1564)の「予定説」つまり、「人間が救われるか救われないかは既に予定されたことである、しかしそれは死ぬまで分からない。

証明するのは自分だよ、だから禁欲を守ってよく働くことだ」「勤労を嫌がるお前は、ひょっとして救われない人間として予定されているのかな?」という感じで
予定説による勤労と禁欲を根付かせたことが西洋の近代化に繋がったと言われているのです。

全く違った思想ですが、近代化に関しては同じような効果を持ったわけです。

しかも、正三(1577-1655)は戦国の世に武士として活躍した江戸初期の人間です。

二代将軍秀忠の親衛隊のポストを投げ捨てて仏道修行に入ったという経歴の持ち主で、武士が出家など許されない時代に、やりたいことをやりぬいた近代的思想家でした。

江戸初期という時代に日本の大衆のなかにこのような人物がいて、
勤労精神を植え込んだということに、「強国論」を書いたランデス教授は驚いているのです。

そして日本は今少しおかしいが強国になるに違いないと見ています。

ところが西洋から見た日本の強国の秘密は、戦後の日本を支配したGHQにとっては当然のことですが驚異と写り、これを断絶させなければいけないことになるのです。

扉に「明治の志士たちが座右の書として学んでいた上杉鷹山の師・細井平州の教え、貞観の治を為し遂げた唐の太宗の教え、仕事の意味を教えた三河の禅僧鈴木正三の教え、などなど、多くのリーダー必読の書物が、戦後は忘れ去るように指導されてきたのです。」と書きましたように、GHQの目論見はみごとに当たりました。

そしてできあがった骨抜き日本人の象徴が、中国に留学して愚かなる行為で顰蹙を買っている学生たちの姿かもしれません。
石田地震科学研究所サロン


「(前略)山本七平氏は,(中略)日本を第3者,それもキリスト者の目からできるかぎり客観的に把握しようとする立場を磐石の基盤として,深く広く日本思想の理解に当たって来られた希有なる学者である。

二代にわたる熱烈な新教信者の家に生まれ,その深い宗教的雰囲気に包まれて成長,自分自身も全く自然にその三代目として深い信仰をもつに至ったという日本人としては数すくない経歴の持ち主である。(中略)

従来多くの人々が見すごすか,その独自な価値を認めていなかった鈴木正三をはじめ多くの学者文人を発掘,照明を与え,その人たちが,日本の思想を代表するものであることを見事に証明。(中略)

対象に対する分析は微に入り細をうがって,そしてあくまで論理性を失わない。

日本の思想史学界に金字塔を打ち立てるとともに,その明快さによって広く一般の人々にも日本思想の何たるかを教えた功績は他に比類がないと断言できよう。」   会田雄次・佐伯彰一著「山本七平と日本人」 まえがきから


故山本七平氏ののこされた仕事は,「山本学」としかいいようのない独特のものでした。

主に「日本とはなにか」という問題に,独自の視点から探究を続け,かつて想像できなかったほど意外な──,

それでいて指摘されれば反論が困難なほど的確に「日本の素顔」を描きだしました。

しかし,著作は,広く一般には知られましたが,既存の学界からは充分な評価は得られたとはいえず,最後まで在野の人として生涯を過ごされました。

その理由としては,小室直樹さんが「日本教の社会学」の中で指摘されたように,「学者としての方法論を正式に勉強する機会がなく,独学で自らの思想を形成されたからでしょう。

よって、学問としてのスタイルを充分にととのえられなかったのです。」

さらにいうなら,
その業績が,画期的であるがゆえにこそ,注目されず,本質が理解されにくかったともいえましょう。

現在でも,その評価は充分にされているとはいえず,今後,氏ののこされた「学問」の研究が待たれるところと期待しています。


現代経営書


SYNCHRONATURE