HUMAN ACTIVITIES
ユーゴスラビア…多民族国家の悲劇



スレブレニツァの虐殺

1. イスラム教徒虐殺ビデオ、セルビア人社会に動揺広がる

【ウィーン=石黒穣】ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の1995年7月、イスラム教徒約8000人が犠牲になったスレブレニツァの虐殺で、残忍な殺害場面を写したビデオが初めて公になり、これまで事件に目を背けてきたセルビア人社会にも動揺が広がっている。

ビデオはセルビア人民兵組織がイスラム教徒の若者6人に暴行を加え、銃で殺害するまでを記録している。

トラックから降ろされた若者たちは両腕を後ろ手に縛られ、その前で銃を振りかざす民兵たちの人相もはっきりわかる。

後から殺される若者が、先に殺された仲間の遺体を運ばされる場面もある。

ビデオは民兵自身によって撮影されたもので、ベオグラードの人権団体が入手し、旧ユーゴ戦犯国際法廷(オランダ・ハーグ)で1日、証拠として上映された。

続いて、セルビア・モンテネグロのテレビ各局でも放映され、同国の警察は4日までに、ビデオから特定された7人を逮捕した。

ミロシェビッチ元ユーゴ大統領は、同法廷で、スレブレニッツァ虐殺をめぐってジェノサイド(集団殺害)罪を問われている。

だが、セルビア人社会には紛争時代の残虐行為を否定する空気が強く、ボスニアの元セルビア人勢力指導者カラジッチ被告ら大物戦犯が逃亡を続けられる土壌となっている。*1 放送授業でもビデオを見ることができたが、衝撃的な内容であった。

2. ユーゴスラビア…多民族国家の背景と崩壊への道

第2次大戦後に成立したユーゴスラビアは、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という表現に示される複合的な国家となった。

ユーゴスラビアは北から、スロベニア、クロアチア、ボスニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国により構成されていた。

ユーゴスラビア建国の父チトーは、民族間のバランスを巧みに取りながら、危うい多民族国家ユーゴスラビアの舵取りを行っていった。

しかし、統合の象徴であるチトーが1980年に死去し、それまで比較的好調だった経済状況も悪化、富める北の地域と貧しい南の地域の経済格差は拡大していくと各地で社会情勢が不安定となっていく。

民族自決を求めてスロベニアとクロアチアは1991年に独立を宣言した。

南北格差による経済的利害に民族自決が絡んだ結果によってユーゴスラビア連邦は崩壊することとなった。

ユーゴスラビアからのスロベニアとクロアチアの独立を受け、ボスニアにおいても独立の賛否を問う国民投票が実施された。

セルビア人がボイコットする中、有権者総数の62%が独立に賛成し、1992年の3月にボスニアはユーゴスラビアからの独立を宣言した。

しかし、独立賛成派のムスリム人・クロアチア人勢力と独立によりボスニア内では少数民族となってしまうセルビア人勢力との中で武力衝突が勃発してしまう。

ユーゴスラビアでは全人民防衛体制が敷かれていたため各行政単位ごとに武器が保管されており、紛争開始と同時にその武器が瞬く間に市民一人一人の手に広まってしまった。

その中で極右民族主義勢力が武力闘争を主導し、民族主義政治勢力がメディアによるプロパガンダで民族対立をあおりたて、市民たちは「やらなければやられる」立場に追い込まれてしまった。

異民族であるからといって自動的に戦争がおきるわけではない。 対立を煽ることによって有利な立場になり得をする政治家がいる。 

ユーゴで最初に民族主義を煽った政治家はミロシェビッチであった。

彼はこのことで自分が選挙で勝つという利益をあげ、民族主義を道具として出世することになった。

これにより民族対立がどんどん激化していく。

ミロシェビッチは87年から88年にかけて、民族主義を道具にして恩人を追い落として権力を握った。

戦争を起こすには、武器、兵隊、訓練、輸送、食料等々大規模な準備が必要である。

そして戦争の命令が必要である。

戦争が起きた仕組みを理解して戦争を起こした政治家を戦争犯罪人として処罰することで、次の戦争を防ぐことができる。

ボスニア紛争では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人のそれぞれの勢力が領域拡大を目指して衝突を繰り返した。

他民族の自己領域からの排除のため、
「民族浄化(エスニック・クレンジング)他民族撲滅」と呼ばれる追い出し政策をそれぞれの民族が推し進めたため、難民・避難民は総人口の半分を超える250万人近くにまで達した。

敵対民族を根絶やしにする目的で「集団レイプ」が組織的に行われ、「強制収容所」に敵対民族を連行・虐待していたことなどは欧米諸国でも報道され、世間を震撼させることとなった。

精強な旧ユーゴ軍をセルビア共和国が引き継いだことが、悲劇を生んだ。

戦局は武装度で優位に立つセルビア人勢力が領土を拡大してボスニアの6割を支配下におさめる一方、クロアチア人勢力が3割、ムスリム人勢力は1割にまで縮小された。

セルビア人勢力にはセルビア共和国が、クロアチア人勢力にはクロアチア共和国が支援を行い、ムスリム勢力にはムスリム諸国から義勇兵(ムジャヒディン)が入ることで紛争は泥沼に突入していく。
 

3. スレブレニツァ大虐殺

1995年5月に停戦が失効すると、ムスリム勢力とセルビア勢力の戦闘は激化した。

国際的に孤立したセルビア人勢力は国連防護軍兵士を人質にとって「人間の盾」にするほど追い込まれていった。

その最中の7月、ボスニア東部の街スレブレニツァは、国連により安全地帯に指定され600人の軽装備のオランダ部隊が展開していた。

国連は安保理決議を経て防護部隊(PKF)を派遣し「安全地帯」を設けた。

ところが国連PKFは停戦監視か兵力引き離しに対応する最小限の武力しか所持できない。

戦車などの重火器で武装した旧ユーゴ軍の前では無力だった。

重装備のセルビア人勢力に攻撃されたためにオランダ部隊は撤退し、残されていたムスリム男性の8000人といわれる人たちが連れ去られて行方不明となった。

ヨーロッパでは、ホロコースト以来の大虐殺として、「スレブレニツァの大虐殺」は知られている。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国独立後、人権団体の圧力により究明委員会が設けられた。

究明委員会は、42ページからなる報告書を公開した。

それによると・行方不明(虐殺)のムスリム7779人のうち1332人の身元が確認された。 

すでに発見されている32ヶ所の墓地(虐殺したムスリムを埋めた)のうち28カ所は、虐殺の事実を隠すために殺害場所とは違う場所だった。

3年間で20万人の犠牲者を出したボスニア紛争は、12月のパリにおける和平デイトン合意正式調印をもって終結した。*2

4. アメリカ主導によるNATO軍のユーゴ空爆

NATOから見れば、コソボ自治州のアルバニア系住民への虐殺に象徴される迫害を、ユーゴ・ミロシェビッチ大統領の「民族意識による非人道的浄化作戦だ」と非難し、「人道的見地から和平を促進させる」という大義名分を用意した。

国際世論を味方にしてユーゴを武力でねじ伏せ、ミロシェビッチに和平案を受け入れさせるのが狙いだった。

しかし、空爆効果という表面的な幻想での「武力でねじ伏せる」思惑の実現は、米軍自慢のステルス攻撃機の撃墜が一面を象徴したように簡単なものではなかった。

また「人道的見地での攻撃」は、逆にコソボからの大量難民の流出に拍車をかけた。

否、そればかりではなく誤爆による民間人の死傷者増など、いわば「非人道的な状況」を生んだりと、いずれも皮肉な結果になった。

その間、ユーゴスラビア・コソボ自治州から、マケドニアなど隣接する国に避難する難民は合計100万人にも至ったとされている。

国連難民高等弁務官事務所によると、NATOの空爆開始以来、コソボ州から避難したアルバニア系難民は、アルバニアに約44万人、マケドニアに約23万人、モンテネグロに約7万人、ボスニアに約3万人が流入。

トルコやクロアチア、ブルガリアにも約3万人が避難したという。

欧州連合(EU)やNATOは、難民10万人を一時受け入れる方針を決めたが、空爆開始後2カ月間で受け入れたのは約5万人にとどまり、バルカン諸国に難民の受け入れを依存し続けた。

さらにNATO空爆は、民間人の死者1500人以上、負傷者約5000人以上、その4割が子供という現実は、「典型的な戦争犯罪」にも至った。

戦闘行為が開始されるとすべての価値観が変化し、ユーゴ・セルビア勢力側からすればNATO軍が鬼で、クリントンがヒトラーに見える。

コソボ・アルバニア勢力やNATO側からすれば、ユーゴやセルビア治安部隊が鬼で、ミロシェビッチがヒトラーに見えるという「どっちもどっち」の状況だった。

そして、多勢・無勢の価値観がゴチャマゼになっての批判も乱舞する中で、国際世論の数や国際勢力の強さで破壊行為や殺人行為が正当性を持ってしまうということが鮮明になっていた。

ユーゴが行った虐殺が人道的に許し難い犯罪なら、NATOの空爆もまた人道的に許されるものではない戦争犯罪だということだろう。

少なくとも5000億円は下らないといわれる空爆経費を投入して70日を超える出撃を延べ3万機以上で展開してユーゴ軍を追い詰めた。

このような空爆の成果をNATO側から考えるとしても、予想以上の泥沼化で長期戦になった上に、一般市民を巻添えにした誤爆は非難されても当然であろう。

「われわれは正しいことを行って勝利した」ユーゴ・コソボ紛争を解決に導いたのはNATO軍の空爆の成果であると、空爆停止の際に演説したクリントン大統領のように、「正義」を誇張し、「地域紛争の解決は、軍事力」をこれからも続けることになるのであろうか。

NATO軍は、約80日間におよぶユーゴ空爆作戦で、計約3万1000発、重さにして計10トン近くの劣化ウラン弾を使用していたことを認めた。

このことを発表したUNEP(国連環境計画)によると、ロバートソンNATO事務総長がアナン国連事務総長への書簡の中で明らかにした。

劣化ウラン弾は100におよぶ特別作戦を通じ、アメリカ軍などのA10攻撃機からコソボ全域に投下された。 

劣化ウラン弾は破壊力を高めるため、ウランの廃棄物を弾芯に用いている。

このため毒性も指摘され、健康や環境への悪影響が懸念されている。*3

ボスニア戦争そのものは1995年8月末〜9月中旬のNATOの大規模な空爆を経て、11月の米オハイオ州デイトンでの和平協定調印(デイトン合意)で一応、終結した。

しかしこれもまた、やはり武力には武力なのか、やはり超大国アメリカに頼るしかないのか、という、別の意味での違和感を残した。

1995年当時の日本は阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり、国際社会とは別の文脈にいた。

日本でこの映画を見る際、現地の人や、ボスニアに兵士を派遣している欧米諸国、あるいはタヒールの故郷オーストラリア(旧ユーゴ諸国からの移民が多い)の観客と同じ感慨を共有するには、この問題での
「国際的常識」の欠落を補う知的努力が必要だろう。

そうでなければ、少なくともこの映画を、問題を考えるきっかけにしてくれればいい。遅すぎることは決してない。*4 

5. 国連平和維持軍

スロベニア及びクロアチアという旧ユーゴ連邦内の共和国が独立を宣言した後、1991年に内戦が勃発し安保理がその後の決議で経済制裁と武器禁輸を徐々に強化した。 

安保理はまずクロアチアに対して国連保護軍(UNPROFOR)を展開した。

1992年4月、セルビア軍はボスニアのイスラム教徒に対するテロを含む大規模な軍事行動を起こした。

この悲惨な戦争に直面した安保理は国連平和維持軍の展開をボスニアに拡大することを認めた。

国連は1992年5月にクロアチアとスロベニアとボスニアをそれぞれ独立の国連加盟国として承認した。

この承認によって、旧ユーゴ領内の紛争は“国内”紛争から転じて、国連安保理が憲章第7章の下で管轄権を行使できる“国際”紛争になった。

憲章第7章の下での安保理の管轄権は“平和に対する脅威”、“平和の破壊”または“侵略行為に対してのみ及ぶ。

前2者は“国際平和”に関係する限りで問題となるのである。

国連加盟国は、憲章§2(7)が明記する国内管轄権に対する制約から漏れる国際戦争としての紛争を扱いたがらなかったのである。

国連では明石康氏を旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に任命して事態の収拾に努めた。

国連防護軍の犠牲が相次いだために、NATOに対してセルビア人勢力への空爆要請がなされ、94年4月になり限定的空爆が行われた。

アメリカは国連がセルビア側に肩入れしているかのようなイメージを作っていった。

国連、とくに明石氏は三者の意見を聞いて平等に扱うという方針でのぞんでいたが、アメリカはセルビア悪者論に傾いていた。

アメリカは明石氏が弱腰、セルビア派というレッテルを貼っていき、最後にはガリ事務総長に圧力をかけて明石氏から大事な権限を取り上げる。 

空爆を自由にするための明石はずしをしていった。 

ガリ事務総長は、明石氏がカンボジア内戦で高い評価を得ていたため「明石つぶし」のために 94年1月ボスニアに派遣して、アメリカが「明石はずし」をおこない95年8月から空爆というプロセスを踏んでいったのであった。

「明石はずし」は空爆のための「国連はずし」であった。

明石はずしの後は、NATOが勝手に空爆ができる仕組みを作るのがアメリカの目的であった。

1993年4月及び5月に、ボスニアのセルビア人が同国内のイスラム教徒を長期にわたって計画的かつ大量に虐殺していることが判明してから、安保理はボスニアのセルビア人による虐殺行為(民族浄化)を強く非難した。

イラクのクルド人安全区域の先例に倣って、軍事的に包囲されたイスラム教徒のための安全区域を設定した。 

国連保護軍は重火器を使用して当該安全区域を現実に保護する権限は与えられていなかったが、安保理決議836によって当該安全区域に対する攻撃を“防止し”、停戦を監視し、ボスニア非政府軍の撤退を促進し、人道支援に継続的に参加し重要地点を占拠する権限を与えられていた。

 1995年8月及び9月、アメリカの圧力を受けてNATOはサラエボ周辺のセルビア人勢力の軍事拠点に大規模な爆撃を開始した。

また、クロアチア及びボスニア両政府軍の軍事的成功もあって、最終的にセルビア人勢力も交渉のテーブルに就き、デイトン平和協定が締結された。

1999年12月、アナン国連事務総長は国連保護軍が安全区域を放棄した後に多数のイスラム教徒男性が少年も含めて大量殺戮されたことについて国連の責任を認める自己批判に満ちた報告書を発表した。


6. 「国家主権尊重」「内政不干渉」と「人権」

冷戦後、国と国との戦争は少なくなった。

しかし、国の中でのさまざまな暴力・内戦が増えている。

内政不干渉の原則だけでは対応できない世の中になっている。

国際法の学者から「人道問題、人権問題は純粋な内政問題ではない」という見解が出されるようになっている。

純粋な内政問題ではないということは国際問題であるということになる。

ソマリア情勢の急激な悪化と深刻な人命の軽視、南アフリカと南ローデシアの人種差別政策、ルワンダで発生したホロコースト、東チモールの危機、ロシアのチェチェン問題、中国の台湾問題・チベット問題・北朝鮮による拉致問題等々多くの人権問題がある。

ユーゴ空爆において、NATOは国連を完全に無視した。

国際平和の問題で、国連は存在意義がなくなる危機に直面しているのではないか。

人権問題は国際問題だという人権擁護の新しい原則は、今後さらに発展して国際問題の解決法の重要な柱になることは間違いないと思われる。

参考文献:
「ユーゴスラビア現代史」 柴宜弘著 岩波書店
 なぜ戦争は終わらないか 千田 善 みすず書房

*1 Yomiuri Online から配信をうけたgooニュースのキャッシュより:2005年 6月 4日 (土) 20:33
*2 「ユーゴスラビア現代史」 柴宜弘著 岩波書店
*3
 Copyright1999〜2000 Local Communica't Co.,Ltd.
*4 「エグザイル・イン・サラエボ」とその背景 千田 善





「エグザイル・イン・サラエボ」とその背景 千田 善 

最初に、映画の冒頭で出てくるスレブレニツァ虐殺について、少し説明しておこう。
 
ボスニアは、三年半で死者二十数万、難民三百万人、組織的なレイプや非戦闘員虐殺、追放など「民族浄化」(他民族撲滅)の悲惨な経験をした。

その中でも、一度に七千人が殺されたスレブレニツァ虐殺は、国際社会に大きな衝撃を与えた。

戦争初期にボスニア潜入を試み、負傷で断念していたタヒール(タヒアの現地読み)が再度サラエボ行きを決意したのも、この虐殺事件がきっかけだった。

 ボスニア東部のスレブレニツァはムスリム人(イスラム教徒)の町で、一九九五年七月に陥落した。

その際、未成年者を含む男性約七千人が、女性や老人から引き離され、セルビア人勢力軍に連行されたまま行方不明になった。

十日後、隣接するジェパ村も陥落し、男性約千七百人が、同じように消えた。
 
「危害は加えない。あなた方はわれわれの保護下にある。家族はいずれ再会できる」とセルビア人勢力のムラディッチ司令官(冒頭の実写映像に出てくる)は住民をだました。

実際には、男たちはほぼ全員が数日のうちに殺害され、近くの山中に埋められた。

ムラディッチは、ボスニアの「セルビア人(ルビ=スルプスカ)共和国大統領」のカラジッチらとともに戦争犯罪容疑(大量虐殺)で国際法廷に起訴されているが、逃走中。集団埋葬地は現在、国連の調査団が発掘中だ。

 スレブレニツァやジェパは国連が「安全地域」に指定していた。

しかし配備された国連平和維持軍はたった数百人で、最初から守れるはずがない。

しかも国連部隊を援護するはずのNATO(米軍)は、セルビア人勢力の攻撃準備を偵察衛星で事前に知りながら、国連部隊にも知らせず、陥落を事実上黙認した。

 ジェパの隣に位置し、同じ「安全地域」だったゴラジュデ(映画後半で出てくる)は陥落をまぬがれたが、四年近くの地獄の苦しみは、絶望した市長が「助けてくれないなら、ひと思いに殺してくれ」と、自分たちへの空爆をNATOに要請したほどだった。

 スレブレニツァはサラエボなどと並んで、ボスニアの悲劇の象徴である。

悲劇とは、人間がたくさん死んだことばかりではない。

決議や声明ばかりで、有効な対策を打たなかった国際社会の無力さの象徴でもある。

二〇世紀の「国際正義」に対する絶望と憤り。

筆者は最近、夫や息子を亡くしたスレブレニツァの女性たちとサラエボで会ったが、口々に訴える難民を前に、ジャーナリストとしての贖罪の方法をあらためて考えさせられた。

 ボスニア戦争そのものは九五年八月末〜九月中旬のNATOの大規模な空爆を経て、十一月の米オハイオ州デイトンでの和平協定調印(デイトン合意)で一応、終結した。

しかしこれもまた、やはり武力には武力なのか、やはり超大国アメリカに頼るしかないのか、という、別の意味での違和感を残した。

 映画の舞台は、以上のように、九五年夏のスレブレニツァ虐殺から、デイトン合意、そして九六年春のセルビア人勢力撤退、サラエボ包囲解除までのボスニア。現場で撮影されたドキュメンタリーである。

サラエボでの暗殺事件をきっかけにした第一次世界大戦によって幕を開けた二〇世紀が、同じサラエボでの殺戮で閉じようとしているその終幕を、自分の背丈に合わせて切り取った映画だ。

 九五年当時の日本は阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり、国際社会とは別の文脈にいた。

日本でこの映画を見る際、現地の人や、ボスニアに兵士を派遣している欧米諸国、あるいはタヒールの故郷オーストラリア(旧ユーゴ諸国からの移民が多い)の観客と同じ感慨を共有するには、この問題での「国際的常識」の欠落を補う知的努力が必要だろう。

そうでなければ、少なくともこの映画を、問題を考えるきっかけにしてくれればいい。

遅すぎることは決してない。

 ともあれ、主人公タヒールにとってのボスニアは「外部」から潜入する未知の場所であると同時に、自分自身がその「内部」にルーツを持つという特別の場所だ。

「エグザイル」とは亡命、追放、流刑など、やむを得ず本来とは別の土地に滞在する意味がある。

彼にとってサラエボは、母の故郷という運命的な場所なのだが、みずからの意志によって定めた滞在の地でもある。

トリップ(旅行)でもアドベンチャー(冒険)でもなく「エグザイル」である。

「自分は何者か。どこから来て、そしてどこへ行くのか」と自問する「さまよいの場」でもあっただろう。 

サラエボは三年半の間、セルビア人勢力に包囲された。

盆地を囲む丘には約四百の戦車や大砲が配備され、大小数千の機関銃とともに銃口を市街地に向けていた。

映画の中では十分説明されていないが、セルビア人側の包囲とともに、ボスニア政府(ムスリム人主導)が一般人の市外への脱出を禁じたため、市民は「セルビア人側の標的」かつ「政府の人質」として、二重に苦しむことになった。

 八四年には冬季オリンピックが開催されたサラエボ(人口約五〇万)は、ムスリム人とセルビア人、クロアチア人の主要三民族が共存する近代都市だった。

 五百年のオスマン帝国支配の後、オーストリア・ハンガリー帝国に併合された歴史があり、サラエボはアジアとヨーロッパが併存、融合した独特の景観がある。

 中世には西欧で迫害されたユダヤ人を受け入れるなど、民族や宗教の違いに寛容な伝統があった。

戦争前には(戦争中も)近所同士、クリスマスやバイラム(イスラム歴断食月明けの祝祭)などの祝日に、お互いを招待しあった。

民族・宗教の違いを越えた結婚も珍しくない。

おそらく人口の過半数は、「他民族の親戚」がいるのではないか。

 かつて「欧州の火薬庫」と呼ばれ、第二次大戦のナチス占領下でも民族間の殺し合いが起こったが、共存の歴史の方がはるかに長い。

ところが、八九年の「ベルリンの壁崩壊」など東欧の激動を前後し、隣のセルビアとクロアチアで民族主義政治家が台頭した。

その結果、旧ユーゴ連邦は分裂・解体するのだが、ボスニアは九二年春に独立を宣言し、その直後に民族勢力ごとの領土分割戦争に突入した。

今世紀で三度目の大きな戦争だ。
 
サラエボも争奪戦の対象になり、少なくないセルビア人があらかじめ町を脱け出してセルビア人勢力軍に加わり、サラエボを包囲する側に回った。

一方、みずからの意志でサラエボに残り、町を守る側にたったセルビア人もかなりの数に上る。

ちなみにボスニア政府軍の参謀総長はセルビア人だった。

 そうした意味では、サラエボはムスリム人一色の町ではない。

戦争が「民族紛争」だったのはたしかだが、「民族主義」対「多民族共存」の理念の衝突という側面もあった。

 現実には、サラエボの人口の多数を占めるムスリム人(もっとも犠牲者が多い)の民族主義も強まった。

最近、豚肉の入手がむずかしくなったり、年末にはサンタクロース姿の宣伝マンが殴られるなど、問題がないわけではないが、サラエボの多民族共存の伝統は、まだ(かろうじて?)健在である。

 戦争中の包囲下でも、町に残ったサラエボ市民は民族の違いを越えて助け合った。

 戦争でガスも水道も出なくなり、水を汲みに出るのも命がけだ。

攻撃を避けるために建物の間の細い路地を選んで歩く。

見通しのいい交差点は狙撃されないよう、重いポリタンクを下げて走る。

停電でエレベーターが動かないので階段で運び上げる。

一杯の洗面器で顔、体、足の順で洗い、その水も捨てずにトイレの水洗タンクへ。

冬は街路樹や家具、蔵書を燃やして暖を取る。

攻撃が激しい晩は、地下室や階段で眠る。

テレビは停電で映らない。

ラジオの乾電池は塩水でゆでると一時的に回復することを発見。

生野菜と動物性蛋白が極端に不足する、非日常的な日常生活。
 
ほぼ完全に国際援助物資に依存しつつ、それすらも十分に回ってこないため、サラエボ市民は平均で二〇キロもやせたという。
 
電話局が焼け落ちたので、電話は不通。

親戚や知人の安否確認など「外部」との連絡は、アマチュア無線と国際赤十字の手紙便だけが頼りだった。

「外部」のボスニア関係者がインターネットで膨大な量の情報交換をしていたのと比べれば、まるで原始時代。

 まるでドブネズミの生活だ。

しかし市民たちは、本当にドブネズミのようになることは断固として拒否した。

 ふだんどおりの生活を続けることが、サラエボ市民にとっての「抵抗」だった。

ふだんどおり化粧をし、きれいなドレスを着て、ハイヒールをはいて出かける。

市電は動いていないので徒歩通勤だが、仕事が終われば、奇跡的にやっている劇場や映画館、美術展に出かけたり、カフェで友人とおしゃべりを楽しむ。

それが非日常的な戦争に対する精いっぱいの抵抗なのだと市民たちは考えた。

 極限状態の中でも、あり合わせの材料で、たとえば、小麦粉とマカロニだけで「ポテトパイ」を作り、隣近所で分け合って食べた。

おしゃべりしながら、アネクドータ(小話)を作って戦争を笑い飛ばした。

それが戦時下で「戦争を忘れる」方法でもあった。

 タヒールはそうしたサラエボ市民たちの誇りやユーモア、悲しみや痛みを描きながら、それを共有しようとしている。

その姿勢があって、この映画は作品として成立した。

 筆者は停戦後、サラエボを四回訪れているが、まだまだ復興にはほど遠い。

難民の帰還も遅れているうえ、学校の教科書や通貨は、勢力範囲ごとに異なるものが使われている。

 深刻なのは、戦争をすすめた当事者(政治家たち)がいまだに政権に居座り、民族主義や戦争が悪いことだったと認めていないことだ。

このままだと、戦争の教訓をあいまいにしたまま二一世紀に突入することになる。

 映画を見ながら、ユーモア好きでしたたかなサラエボの人びとの笑顔を思い出した。

筆者も同時代のジャーナリスト、人間として、もっと何かできるはずだと考えている。(ちだ ぜん・ジャーナリスト)




ジェノサイド

1999年9月以来、ロシア、チェチェン両軍の間で激しい戦闘が続き、チェチェンの首都グロズヌイは無差別爆撃よってほとんど廃墟となっている。

もっとも憂慮されるのは、ロシア軍によるチェチェン市民への攻撃と、人権抑圧、ジェノサイドである。

これは主に「掃討作戦」と呼ばれており、ロシア側が「テロリストを匿っている」と判断した村落を包囲し、住民のうち10歳から60歳代にいたる男性をすべて拘束して尋問を加え、場合によっては逮捕者の多数を殺害するというものである。

ダチヌイ村では51人の民間人の死者が発見された事例があり、
アメリカの人権NGO、ヒューマンライツ・ウォッチが詳細に報告したほかにも、多数の同様の事例が報告されている。

2001年9月11日以降、ブッシュ政権が「テロとの戦い」を掲げ、世界を「テロに反対する国々」と、「テロを実行し、支援する国々」に二分しようとしたときに、チェチェンはその境界線上に置かれることになった。

つまり、「抑圧されている少数民族」と、「分離主義のテロリスト」の二種類のレッテルを、その時に応じて貼り替えられることになったのだ。

ロシアのプーチン大統領はいちはやくブッシュの「テロとの戦い」への支持を表明した。

その結果としての中央アジア諸国とグルジアへの米軍駐留も呑んだ。

チェチェンを「対テロ戦争」の一部に位置付けることで、重度の人権侵害に対する欧米からの批判をかわすためである。

「チェチェン紛争は複雑である」。

著者たちは、この複雑さを誰よりも深く見つめ、読者にも紹介した上で、
チェチェン戦争とは、「ロシア軍によるチェチェン住民の大虐殺」と、ロシアからの一方的な攻撃に抵抗する武装したチェチェン人のレジスタンスである、と言う。

独りよがりではなく、分析と記述の上にたって、読者にも論理的に納得できるかたちで。

とはいえ、チェチェン戦争とは「ロシア軍によるチェチェン住民の大虐殺である」という言い切りは、事態を丁寧に分析して導いた結論以上のものを示しているように思われる。

私たちはどのような世界に住んでいるのか。

それは満足できるものか。

そうでないならば、私たちはどのような世界に住みたいのか。

チェチェン戦争を取材し伝える中でかたちづくられた、どのような世界に住みたいかをめぐる、著者たちの控えめな、けれども確かな決意。

この言い切りには、そうした決意が反映されているように思える。


1.1.人道的干渉の代表的事例

1.2.1.ボスニア

スロベニア及びクロアチアという旧ユーゴ連邦内の共和国が独立を宣言した後、1991年に内戦が勃発し安保理がその後の決議で経済制裁と武器禁輸を徐々に強化した。

さらに安保理はまずクロアチアに対して国連防護軍United Nations Protection Force(UNPROFOR)を展開した。

1992年はじめには戦火はボスニアに拡大した。

ボスニア政府も独立を宣言したが同国内のセルビア人やクロアチア人が反政府の軍事行動を起こし、セルビアとクロアチアがこれを支援したのである。

1992年4月、セルビア軍はボスニアのイスラム教徒に対するテロを含む大規模な軍事行動を起こした。

この悲惨な戦争に直面した安保理は国連平和維持軍の展開をボスニアに拡大することを認めた。(18)

国連はやがて1992年5月にクロアチアとスロベニアとボスニアをそれぞれ独立の国連加盟国として承認した。

この承認によって、旧ユーゴ領内の紛争は“国内domestic”紛争から転じて、国連安保理が憲章第7章の下で管轄権を行使できる“国際international”紛争になった。

前述のとおり、憲章第7章の下での安保理の管轄権は“平和に対する脅威threat to the peace”、“平和の破壊breach of the peace”または“侵略行為act of aggressionに対してのみ及ぶ。

前2者は“国際平和
international peace”に関係する限りで問題となるのである。

国連加盟国は、憲章§2(7)が明記する国内管轄権に対する制約から漏れる国際戦争としての紛争を扱いたがらなかったのである。

国連防護軍UNPROFORへの委任範囲は急速に拡大されサラエボ空港の保護やボスニアでの人道支援活動一般が含められた。

(19)国連防護軍の要員に対する武力攻撃が増えたため、安保理はボスニア上空へのすべての軍事飛行を禁止した。

(20)1993年2月、安保理は国連防護軍の安全の強化を検討し、“必要な自衛手段
the necessary defensive means”(21)を執ることを承認した。

約1ヵ月後、この軍事飛行の禁止は拡大され、ボスニアへの非軍事飛行も禁止され、安保理はこの禁止措置を執行するために国連加盟国に対して個別に又は地域機構を通じて“すべての必要な措置
all necessary measures”を執ることを認めた。

(22)北大西洋条約機構NATOは1993年4月現在、この目的のために空軍の支援を提供することに同意した。

安保理の禁止措置は日常的に侵犯されたが実害が発生することは無かった。

1993年4月及び5月に、ボスニアのセルビア人が同国内のイスラム教徒を長期にわたって計画的かつ大量に虐殺していることが判明してから、安保理はボスニアのセルビア人による虐殺行為(婉曲に“民族浄化ethnic cleansing”と表現される)を強く非難し、イラクのクルド人安全区域の先例に倣って、軍事的に包囲されたイスラム教徒のための安全区域を設定した。

(23)国連防護軍UNPROFORは重火器を使用して当該安全区域を現実に保護する権限は与えられていなかったが、安保理決議836によって当該安全区域に対する攻撃を“防止し
deter”、停戦を監視し、ボスニア非政府軍の撤退を促進し、人道支援に継続的に参加し重要地点を占拠する権限を与えられていた。

安保理はまた自衛のために必要とされる措置をとる権限を国連防護軍UNPROFORに委任したが,そうした措置には“いずれかの紛争当事者による安全区域に対する爆撃や軍事侵入に対する武力行使、更には安全区域内やその周辺での国連防護軍および人道支援物資輸送部隊の移動の自由に対する意図的妨害に対する武力行使”が含まれた。

安保理はさらに地域的機構を含むすべての国連加盟国に対して、“安全区域内及びその周辺で空軍力を用いて、すべての必要な措置”をとり、任務が拡大した国連防護軍を支援することを認めた。(24)

この野心的な任務を遂行するために、国連防護軍UNPROFORは北大西洋条約機構NATOとの間でやや不確定要素の多い関係を取り結ぶことになった。

前述のとおり、安全区域の周辺から重火器の撤去を求める安保理決議を執行するために、北大西洋条約機構NATOは安保理が設置した“飛行禁止区域
no−fly zone”を維持しセルビア人武装勢力の拠点を攻撃するための空軍力を提供した。

これが国連の強制行動に対する地域機構の援助の最初の事例になった。

国連憲章第8章には安保理の方針に従って地域機構が援助すべきことが明記されていたのだが、それまでその実例が無かったのである。

(25)国連防護軍に対して大量の平和維持要員を参加させている英仏政府は自国部隊の安全に対する配慮からアメリカ政府ほど航空攻撃に積極的でなかったし、ボスニアでの戦争をセルビアによる侵略戦争とは捉えず基本的に内戦として理解していた。

従って、英仏両政府及び国連事務総長は国連防護軍UNPROFORが伝統的な平和維持原則に従って自衛の場合のみ武力を行使すべきであると考えていた。

しかし、国連の意向に基づいて、空襲が警告されたり、あるいは実行されたりした。

安保理はボスニア紛争の特徴である大量殺戮・拷問・レイプといった忌むべき行為を軍事手段ではなく基本的に司法手続によって処理しようとした。

安保理は再び憲章第7章に基づきアド=ホック旧ユーゴ国際刑事法廷
ad hoc International Criminal Tribunal for the Former Yugoslavia (ICTY)を設置して、国際人同法違反で訴追された個人の審理を始めた。(26)

ボスニアのセルビア人勢力がスレブレニカ及びゼパの安全区域を制圧しイスラムの民間人を大量殺戮するのを阻止するために北大西洋条約機構NATOは“ピンポイントpinprick”空襲を行ったが目的を達成できなかった。

(27)国連派遣軍がセルビア人武装勢力に対して積極的に軍事力を行使しなかったために、NATOによる攻撃が終わった後、国連の“不面目
humiliation”を指摘する声が上がった。

1999年12月、コフィ=アナンKofi Annan国連事務総長は国連防護軍UNPROFORが安全区域を放棄した後に多数のイスラム教徒男性が少年も含めて大量殺戮されたことについて国連の責任を認める自己批判に満ちた報告書を発表した。

(28)1995年8月及び9月、アメリカの圧力を受けてNATOはサラエボ周辺のセルビア人勢力の軍事拠点に大規模な爆撃を開始した。

また、クロアチア及びボスニア両政府軍の軍事的成功もあって、最終的にセルビア人勢力も交渉のテーブルに就き、デイトン平和協定が締結された。

この協定でNATOが指導する多国籍執行軍
multinational Implementation Force(IFOR)の展開が認められた。(29)

国連防護軍の全活動が国連加盟国(国連安保理やNATO構成国を含む)のボスニア紛争に関する国連防護軍の任務や戦略についての深刻な見解の分裂によって麻痺したのである。

国連加盟国及び国連諸機関は、一方では市民の人権を配慮して、他方では“過度のexcessive”武力行使を控えて“公正impartial”で早期の紛争解決を促進するため、法的倫理的(30)矛盾を如何に解消すべきかについて意見は一致しなかった。

例えば、ボスニアのイスラム教徒の大儀に同情的な国連総会代表者たちは、事務総長に対して安全区域の保護を国連防護軍に指示するよう要請し、安保理に対して民族浄化の停止と抑留キャンプの即時閉鎖を強行するよう要請する多数の決議を採択した。(31)

他方でガリ
Boutros Boutros−Ghali事務総長は、仮に一般市民が直武力攻撃にさらされても国連防護軍が市民を保護するために武力を行使する権限は安保理決議によっても与えられていないと述べた。(32)

国連外の第3者は安保理が民族浄化をやめさせるためにもっと強力な軍事的措置をとる法的権限を持っているのだからそうすべきであったと指摘した。

彼らは国連が安全区域を放棄したことについて法的道義的責任の放棄であって悲劇的結末をもたらした失策であったと見ている。

デイトン平和協定に基づく多国籍執行軍IFORは国連防護軍UNPROFOR以上に、それに参加している国連加盟国の同意を反映していた。

戦闘が終了し紛争当事者がIFORの展開に同意したので、参加国はIFORに強い授権を与え、重要軍事物資を提供しその処分を任せたのである。

国連の軍事的無能力に関する国連防護軍とアメリカの認識が合致しなかったため、アメリカとしては安保理管理下での任務に見切りをつけ多国籍執行軍IFORの統合モデルを作ろうとした。

しかし、クリントン
William Clinton大統領及び紛争当事者はIFORの活動に対して国連の許可が必要との立場を維持した。

しかも、その許可は当然安保理が出す性格のものであった。(33)

それにもかかわらず、多国籍執行軍IFORは国連から委任された軍事行動を適切に遂行するために自らが直面する法的倫理的問題を提起した。

最も論争された問題の1つが、ボスニアのセルビア人勢力の指導者カラジッチKaradzicと軍事部門の責任者ムラジッチRatko Mladicを含む旧ユーゴ戦犯法廷ICTYが起訴した個人をIFOR(及びこれを引き継いだ安定化部隊SFOR)が逮捕できるかどうかという点にあった。

IFOR参加国はデイトン平和協定 − その内容は非政府間機構(NGO)とメデイアから大いに批判された − の継続的で平和的な執行にマイナスの影響を与えるのではないかという懸念から逮捕に消極的であった。

2001年6月30日現在、カラジッチもムラジッチも逮捕されていない。

しかし、ユーゴの前大統領スロボダン=ミロシェビッチ
Slobodan Milosevicが6月28日にハーグに移送された後も両名を逮捕するための方策が探られている(See subsection 1.2.5)。(34)


1.2.2.     ソマリアSomalia

国連のソマリア派遣軍は、国連が認めた軍事行動であっても1国内の武力紛争当事者間の“熱hot”戦の中で彼らの同意を得ずに人道支援物資の配給を行い内戦当事者を政治対話の席につかせることが法的にも倫理的にも可能なのであろうかという問題を大胆に提起した。(35)

1991年1月26日、モハメド=シアド=バレ
Mohamed Siad Barre大統領の政権が崩壊した後、アリ=マハデイAli Mahdiとモハメド=ファラー=アイデイードMohamed Farah Aidid将軍が率いるそれぞれの部隊が中心となって内戦に突入した。

内戦によってソマリアは分裂し無政府状態になった。

さまざまな勢力の兵士がすでに飢餓状態にある市民から救援食料を略奪し、危機的状況の飢饉をさらに悪化させた。

そのために大規模な人口移動の波が隣国のケニヤ・エチオピアそしてジブチ
Djiboutiに押し寄せた.

各種の地域機構から行動を起こすよう要請されて、1992年1月、国連安保理は“ソマリア情勢の急激な悪化と深刻な人命の軽視”に重大な警告を発し、“この地域の安定と平和に対する影響”に関心を持っている旨表明した。

安保理は、“こうした状態が継続すれば・・・国際平和及び安全に対する脅威を構成する”と宣言し、憲章第7章の下で授権されている一般的で完全な武器禁輸措置を発動した


1.2.3.           ルワンダRwanda

1994年4月、大量殺戮発生後の最悪の集団殺害の続発を抑えるために国連として法的ないし倫理的に軍事力を行使できるか、また行使すべきか − 又はその行使を要請されているか − を決定するために国連総会が招集された。

そのホロコースト(大量殺戮)はルワンダで発生したのである。

原因不明の航空機事故でハビャリマナが死んでから、1994年4月、いわゆる志願兵を含んだ政府軍がツチ族および穏健派フツ族に対する大規模な集団殺害genocideを始めた。(51)

国連ルワンダ支援部隊UNAMIRの司令官ロメオ=ダレール
Romeo Dallaireは、この航空機事故以前においてさえルワンダで大虐殺の計画が進んでいることを国連本部に警告していた。

しかし、彼の上官たちは彼が主張したもっと強力な予防措置を執らないよう彼に指示していた。

ボスニアの場合と同じく、安保理はルワンダでの虐殺に対して犯罪捜査と事後の刑事制裁を科すことを任務とする機関を設置した。

安保理はまず、集団殺害を含む国際人道法違反の申立を審理するために専門家委員会を、次に、ユーゴ戦犯法廷ICTYに倣って大量殺戮の責任者を訴追するためにルワンダ戦犯法廷すなわちルワンダ国際刑事裁判所
International Criminal Tribunal for Rwanda(ICTR)を設置した。(65)

 後知恵ながら、1994年4月の大虐殺の第1報が入ったときに国連が迅速に強制行動を執っていれば、最終的に約800,000人に上る犠牲者を出さずに済んだと多くの人は感じている。(66)

クリントン大統領は1998年、ルワンダ訪問中に、ルワンダ危機に際して国際社会が適切に対応しなかったことを認め、そこで起きた大量虐殺が“集団殺害genocide”(67)であるとの認識を率直に表明した。

そして、アナン国連事務総長が任命した独立委員会が1999年12月に作成したルワンダでの国連活動に関する報告書で、すべての関係者が厳しく批判されたのである。(68)

2000年5月に、アフリカ統一機構
Organization of African Unity(OAU)は国際著名人会議International Panel of Eminent Personalitiesの報告書を公表したが、その中でも国際社会がルワンダ国民に対して責任を果たさなかったことが指摘された。(69)


1.2.4.    コソボKosovo

コソボは1990年代末に国際社会が人道的干渉に対してどのような正当性の意識を持っているかを示すもう1つのリトマス試験紙になった。(82)

セルビア共和国の自治州であるコソボは住民の90%が民族的に(大半がイスラム教徒の)アルバニア人であった。

それにもかかわらず、セルビア共和国はコソボをセルビアの不可分の一部とみなし、大半がカトリックのセルビア人社会はコソボ内の多くの地を神聖なものとして扱ってきた。

1980年代末にユーゴにミロシェビッチ大統領が登場してから、セルビア政府はそれまでコソボに与えられていたわずかな自治権を奪い、コソボのアルバニア人に対して組織的な差別活動を展開し、彼らの仕事を奪い、コソボ自治州に対するセルビアの統治を改めて宣言した。

同時にアルバニア人社会の多くの人々がセルビアからの独立を要求し、コソボ解放軍
Kosovo Liberation Army(KLA)が“自決self−determination”のための武装闘争に入った。

ユーゴ連邦政府とセルビア共和国政府はコソボでのこうした政治的動きに対して軍事力で対応した。

1998年3月、コソボ解放軍KLAのメンバーだけでなくコソボのアルバニア系住民に対してもセルビア軍の攻撃が激しくなったため、安保理は“コソボでの平和と安定をはぐくむため
fostering peace and stability in Kosovo”国連加盟国に武器の禁輸措置を採るよう要請した。

安保理は、アルバニア系住民の独立要求に沿った“実質的に従前以上の自治と自決”をコソボが享有でき、しかも“ユーゴ連邦の領土的統一
territorial integrity of the Federal Republic of Yugoslavia”を尊重した政治的解決が望ましいとの考えを表明した。

安保理は更にユーゴ国際戦犯法廷ICTYの検察官に対してその権限に属するコソボでの殺戮事件の情報を収集するよう要請し、ユーゴ政府に対して当該法廷に協力する義務があると通告した。(83)

コソボ情勢が悪化し続ける中、アナン国連事務総長は1998年6月の演説で、何らかの形で国連が承認する軍事介入が実施されるかもしれないと述べた。(84)

1998年9月、安保理は人権侵害と国際人道法違反を指摘する類似のレポートに注意を喚起した。

再度、憲章第7章に基づき、安保理は敵対行動の停止を要求し、コソボのアルバニア人指導部がすべてのテロ活動と手を切るべきだと主張し、紛争当事者が対話を通じて政治的解決を目指すべきだと述べて外交的監視団を派遣する用意があることを指摘した。(85)

1998年10月、アメリカによってユーゴと欧州安全保障協力機構Organization for Security and Co−operation in Europe(OSCE)及び北大西洋条約機構NATO3者間の協定交渉が促進され、OSCEがコソボ地上査察部隊を派遣しNATOが空中査察を引き受けることで合意を見た。

安保理はこれら合意の完全な履行を強く支持し要請するとともに、市民に対して行われたすべての殺戮行為の迅速に調査しユーゴ国際戦犯法廷と全面的に協力するよう要請した。(86)

安保理はこれら派遣部隊の安全
safety and securityを確保するためにユーゴが行動することを歓迎し、“緊急事態が発生した場合、彼らの移動の安全を確保するための行動が必要になるかもしれない”と考え、監視要員を保護するために武力行使の可能性をも敢えて示唆していた。(87)

欧州安保協力機構OSCEはコソボ各地に監視要員を展開したが、彼らからはセルビア軍部隊による各地での虐殺行為の報告が相次いだ。

その中には1999年1月のコソボのラサック村
village of Racakでアルバニア系住民の大量虐殺も含まれていた。

ユーゴはまた、OSCE派遣部隊のトップを追放し、ユーゴ国際戦犯法廷ICTY検察官の調査を拒否した。(88)

こうした混乱の拡大を前にして、フランス・ドイツ・イタリア・ロシア・イギリス・アメリカの各国政府で構成される交渉団Contact Groupが政治的解決を目指す努力を強めた。

その努力は1999年2月、ユーゴ政府代表とコソボのアルバニア系住民代表のフランスのランブイユ城での交渉となって結実した。

いわゆるランブイユ規約
Rambouillet Accordsが成立していれば、コソボに実質的な自治が与えられていたはずであるし、規約の履行を監視するためにNATO軍主導の多国籍軍が展開することになっていた。

しかし、会談は不調に終わった。

1999年3月中旬、再び同様の協定締結に向けてパリ会談が開かれた。

コソボのアルバニア系住民の代表団は協定に署名したが、ユーゴ連邦政府代表は、北大西洋条約機構軍による空爆 
NATO air strikesが迫っているこの段階になっても署名を拒否した。(89)

こうした外交的失敗の後、1999年3月24日、NATOは安保理の同意を得ずに、コソボのアルバニア系住民に対するセルビアの攻撃を抑止しセルビアがパリで拒否した協定に改めて同意させるため、空爆を開始した。

クリントン大統領は、之こそ“良心の命令
moral imperative”(90)であると述べた。

彼も他のNATO諸国の指導者も、ロシアと中国が拒否権vetoesを発動する恐れがあるため安保理の同意は取れそうに無いと考えたのである。

NATOの大規模な空爆はセルビアの攻撃を抑止できるどころか、ユーゴ及びセルビア軍による明らかに組織的なテロ・レイプ・殺人・放火・追放を引き起こしてしまったし、この地域から大量の難民が発生し、人道的な危機的状況を生み出してしまった。(91)

NATO諸国家は陸軍部隊の派遣を拒否したので、空爆が強化され、2ヵ月半近く続行された。

空爆が始まったとき、ロシアは之を激しく非難した。

そして、ロシア、ベラルーシ、インドは共同で空爆を非難する決議案を安保理に提出した。(92)

安保理はこの決議案を賛成3(中国・ナミビア・ロシア)、反対12、棄権0で否決した。(93)

他方、アナン事務総長はNATOが安保理の許可を得ずに行動し国連憲章に違反したと指摘した。(94)

同時に、彼は、ユーゴ当局がコソボの一般市民に対するテロ攻撃を直ちに停止して軍隊を撤退させること、及び難民や避難民の帰還を認め安全な環境を確保するために国際部隊のコソボへの展開を受け入れることを要求した。

彼は、ユーゴがこうした条件を受け入れれば、NATOに空爆を停止するよう要請するつもりであると述べた。

彼は更に軍事行動停止後に永続的平和をもたらす政治的解決を行うよう要求した。(95)

1999年5月、安保理はコソボ難民への人道支援の増大を要請する決議を採択したが、同決議では同時に国連その他の人道支援団体要員のフリー=アクセスの権利を要求し、いわゆるG−8諸国(カナダ・フランス・ドイツ・イタリア・日本・ロシア・イギリス・アメリカ)が採択した諸原則に合致した政治的解決に向けて作業を継続することをも要請していた。(96)

5月末に、ユーゴ国際戦犯法廷の検察官は、戦争の法規・慣例違反と殺人・強制移住・コソボのアルバニア系住民に対する政治的・民族的・宗教的理由に基づく迫害を含む人道に対する罪
crimes against humanityでミロシェビッチMilosevicと他の4名のセルビア人指導者を起訴した。(97)

NATOは空爆の過程で、橋や発電所、更にはセルビアのテレビ・ラジオ局を含む多数の民間施設や軍民共用施設を攻撃した。

そのため、多数の民間人が死亡した。

NATOは人口密集地域に対してウラン爆弾を使いきったほか、集束爆弾cluster bombsをも使用し、違法に環境に被害を与えたといわれる。

更に、明らかな誤爆によって多数の市民が死亡した。(98)

そうした犠牲者には1999年5月にベルグラードの中国大使館の館員が含まれている。

各種の調査結果によると、空爆終了までにNATOの軍事行動によって約500名の市民が死亡したことがわかった。(99)

著名な諸人権団体はこぞってNATOが国際人道法を侵犯したと非難した。(100)

他方、NATOは民間の被害を減らすために事前の警告を出していたことも周知の事実である。

ユーゴ国際戦犯法廷の検察官が任命した委員会は2000年6月に公表したレポートで、“攻撃目標の選定が違法であったかどうか議論されることはあっても”、NATOの命令に従って行動した個人について戦争犯罪や人道に対する罪更に集団殺害genocideについて検察局が調査を開始する権限は無いと結論付けた。(101)

1999年6月始め、ユーゴはNATOの要求を受け入れた。

そこで同月10日に採択した決議1244(102)で安保理は、フィンランド大統領マルッチ=アハチサーリ
Martti Ahtisaari及びロシアの特別代表ビクトル=チェルノムイルジンViktor Chernomyrdinが交渉しアメリカの国務長官代理タルボットStrobe Talbottが後から参加して纏め上げた協定に対して支持を表明した。

この協定及び決議は、“国連の委任の下に”更に“NATOを参加主体とする”多国籍軍KFORを展開すると宣言していた。(103)

 安保理決議1244は国連加盟国及び(NATOのような)関係国際機関に対して、コソボ多国籍軍Kosovo Force:KFORを設置すること、および同部隊が“自己の任務を十分に達成できるようにすべての必要な措置”を提供することを認めた。

その任務には、戦闘の再開を監視・予防すること、停戦を監視すること、セルビア及びユーゴ軍の撤退を確保すること、コソボ解放軍KLAを武装解除すること、“難民や避難民が安全に帰宅し、国際的市民団体が活動でき、暫定行政機関を設置し、人道支援物資を配給できる安全な環境”を確保すること、そして公共の安全及び秩序を確保することが含まれた。

決議1244は更に事務総長に対して、コソボに民主的自治制度が成立するまで民政と経済再建を有効に遂行するためコソボ国連暫定行政機構
United Nations Interim Administration Mission in Kosovo(UNMIK)を設置する権限を付与した。

そのほかこの決議はランブイユ協定草案の精神に従い、コソボの“実質的な自治と自決
substantial autonomy and self−government”を促進すべきことを宣言していた。(104)

しかし、コソボ多国籍軍multinational Kosovo Force(KFOR)によって新たに多数の紛争や問題が発生した。

先ず、NATO軍とロシア軍部隊との間でお互いに管轄区域を確保しようとして緊張が生じた。(105)

多くのコソボのアルバニア系住民はロシア軍部隊の展開に抗議した。

なぜなら、ロシア軍はセルビア軍の一部であって戦争犯罪の調査に消極的とみなされていたからである。(106)

ユーゴの言い分は、コソボ多国籍軍KFORがユーゴ残留のセルビア人をアルバニア系住民の攻撃から適切に保護していないためセルビア人の大量流出
exodusが発生しているというものであった。(107)

2000年2月のミトロビカ
Mitorovica事件(108)のようなコソボのアルバニア系住民とセルビア系住民との武力衝突事件が継続的に発生した。

KFOR要員による人権侵害事件も多数発生したが、アメリカ軍兵士によるコソボのアルバニア系少女に対するレイプ殺人もその1つである。(109)

そして2001年早々、危機は隣国のマケドニアにも飛び火した。

ここではアルバニア系の急進民族主義者がコソボから違法に密輸した武器を使用してマケドニア政府に対する軍事攻撃を開始し、政府軍が之に強行に応戦する有様であった。

こうした新たな緊張関係の下で、マケドニアへの軍事介入を行うべきかどうか、また行うとしていつ行うかについて国連やNATOが検討を始めた。(110)

最後に、ミロシャビッチ自身の投降を求めない和平協定の欠陥を指摘するものもいた。

実際、和平協定及び安保理決議1244はコソボ多国籍軍KFORがコソボ以外の地にアクセスすることを一般的に認めていなかった。

そのためベルグラードはミロシェビッチ
Milosevicにとって潜在的に安全な避難地になってしまった。

2000月9月ユーゴで選挙が行われ、野党の指導者コストニツァ
Vojislav Kostunicaが大統領になってミロシャビッチが引退に追い込まれたため、コストニツァが望んでいないのに、新政権はミロシェビッチをユーゴ国際戦犯法廷ICTYに引き渡すべきだとの世論が強まった。(111)

そこで、新聞報道によれば、NATO事務総長はミロシェビッチがコソボを訪れるならばそのときにKFORは彼を逮捕できるとの見解を表明した。(112)

ユーゴ大統領派はアメリカの経済支援を受け続けるためにユーゴ国際戦犯法廷に協力することをアメリカに2001年3月31日までに約束しなければならなかった。

そこで、ユーゴ当局は、最終日に彼の住居に突入して彼を逮捕した。(113)

当初、ミロシェビッチをセルビアで起訴する予定であったが、2001年6月28日、セルビア政府は西側からの経済支援を失うことを恐れて、ミロシェビッチの身柄をICTY二引き渡した。

この身柄の引渡しは、それを命ずる政令が違憲であるとのユーゴ憲法裁判所の判決に反して行われた。(114)

NATOによるユーゴ空爆期間中、国連はNATOの軍事行動に一切関与できなかった。

しかし、空爆終了後、コソボ多国籍軍KFORの展開に関連して、国連は人道的干渉活動として重要な政治的監視任務を再度引き受けた。

KFORは、1990年代に国連が委任した他の人道的干渉活動と同様の法的・民族的難問にぶつかった。

さらに、国連の同意を得ずに行ったNATOの軍事行動の合法性と倫理性について識者の間で激しい論争が続いたのである。


1.2.5.           その後の展開

NATOによるコソボ干渉は世界の他の地域に先例として適用されないと多くの人は考えたが、国際情勢の変化に直面した政治指導者たちは人道的災難を避けるための武力干渉もやむをえないと考えるようになった。

そして、各国の指導者は幾多の危機の際に軍事干渉を行うか否かの決定を下した。

東チモールで起きた重大犯罪を裁く意思がインドネシアにないことが明らかだったので、国連が代わってそれを行うべきだとする国際社会の世論が強まった。(125)

東チモールの危機はニューヨークで第54回国連総会が招集されたときに噴出した。

東チモールとコソボの危機によって、人道的干渉についての論議は更に深まることになった。

1999年9月、国連総会が招集されたとき、ロシアはチェチェン共和国republic of Chechynaで持続していた独立運動を鎮圧するために更に強硬な作戦に出た。

ロシア軍はチェチェンの首都グローズヌイGroznyを包囲し、一般市民を組織的に追放し始め、時にはテロまで遂行した。

ロシア軍が侵略的性格の強い戦術を取ったので、西側の諸国はこれに抗議したが、自らの戦力を犠牲にしたくないという気持ちが強く、軍事干渉を真剣に考えることは無かった。

ロシア軍の行動は最終的にチェチェンの独立派ゲリラを押さえ込み、少なくとも一時的に一般市民を服従させた。

しかし、ロシア軍部隊の統制が緩み重大な国際人道法違反が行われたと非難する声が多く上がっている。(129)


1.3.人道的干渉論議に潜む法的及び倫理的問題

ここまでやや詳しく述べた国連の授権に基づく5つの代表的な干渉に現れた安保理の大胆な人道的干渉の試みと、安保理の授権を経ないNATOのユーゴ空爆、そして最近のその他の事件から、国際法上のややこしい問題が浮上してきている。

いつ憲章第7章の下で侵害からの救済を目的とする軍事行動を決定できるのであろうか?

国連が認めた人道的干渉は公平性の原則を侵害し国連の伝統的な平和維持機能を麻痺させるのではないだろうか?

平和維持のために“公平性
impatiality”を限定する他の法規範や倫理原則にはどんなものがあるだろうか?

安保理が各種の人権目的のために武力行使を容認する決議を採択するとき、どのような法的・倫理的制約があり、又、なくてはならないのだろうか?

更に、安保理に法的裁量が認められるとき、武力行使の形態や程度に法的・倫理的制約はあるのだろうか?

人間は第一義的に人類社会の一員とみなされるべきであろうか?

それとも特定の民族や国家や人種的集団の一員とみなされるべきであろうか?

共同体的一体性はどの程度尊重されるべきなのであろうか?

例えば、ボスニアのセルビア人やコソボのアルバニア系住民についてどう考えるべきなのであろうか?

もっと一般的な言い方をすれば、相異なる集団に属する個人間関係はどういう内容の倫理規範によって規律されるべきであろうか?

すべての人間が平等の尊厳と人権を認められるべきかどうかについても問われなければならない。

また、個人や政府は他のすべての人間に対してどのような倫理的義務を負っているのであろうか?

政府は自国民に対してどういう義務を負っているのであろうか?

国家主権の壁を破ることはできるのだろうか?

破れるとしていつ破れるのだろうか?

倫理的視点から言って、どういう人権が一番大切で国連安保理の関心を喚起する力を持っているのだろうか?

政府の政策決定に参加するために国民はどういう権利を持っているといえるのだろうか?個人は一般論として人権侵害に責任を負うべきなのであろうか?

もし負うべきであるならば、いつどういう理由で逮捕や処罰が正当とされるのであろうか?

国家内の個人や集団が方を遵守し中央政府に従うのはどういう義務があるからなのだろうか?

反乱や分離独立
secessionが倫理的に許容されるのはいつなのだろうか?

安保理構成国や各国政府を含めて行為主体が一般的に人道的干渉に関する意思決定を行う際に、これを指導する倫理的原則があるのかどうかについて問われるべきである。

人道的危機への対応策を決定する際に、武力不行使・外交交渉推進の原則はどれほどの比重を持っているのだろうか?

どのようにして平和は正義に結びつくのだろうか?

条約に人権尊重がうたわれているか人道的干渉に関する武力不行使が明記されているかにかかわらず、その条約義務を遵守するために政府としてはどういう倫理的義務を負っているのであろうか?

筆者が本書で論ずる人道的干渉活動は軍事力の展開に関する重大な倫理的問題を提起しているのである。

一般論として軍事力の行使はいつ正当化されるのであろうか?

人権侵害を回避するための軍事力行使は許されるのであろうか?

それが許されるとして、いつ許されるのか?いかなる内容の人道規範が人道的干渉を行う際に発動されるのか?

そもそも人道的干渉を遂行すべき道徳的義務
obligationがあるのではないか?

もしそういう義務があるとしたら、いつ認定されるのか?

民族紛争や大規模な人権侵害状況の下で、紛争当事者の利益を平等に考慮し“犠牲になった
victimized”住民を救済するために ― 公平に行動するとは倫理的にどういう意味なのであろうか?

これらの重大な倫理的問題に解答を出す ― 少なくとも解答の糸口を見つける ― ためには、相当内容の充実した倫理規範体系が必要である。 

安保理や国連加盟国全体にとって有益な人道的干渉に関する新たな国際法理論の一部をなす倫理原則は、同時に、安保理や加盟国が合法的に追求できる長期的人道目的の実現のためにいかなるタイプの戦略が必要かを明らかにするものでなければならない。

この点は特にボスニアやコソボの事件で強く認識された。

この種の事態で、安保理は大規模な人権侵害と人道的干渉の余波を受けながら社会再建という重大責務を担うことになる。

具体的に謂うと、安保理は個人の心と現実の行動のケアまで担当し、集団や国家の内部組織を民主的に改変し、集団や国家の間の関係の再編まで担当すべきかが問われるのである。

本書では人道的干渉に関する国際法に焦点を絞っている。

この問題を検証するために、1950年の北朝鮮や1991年のイラクに対する国連同意の下での行動のような国連加盟国に対する軍事攻撃を撃退するための安保理の“集団安全保障
collective security”行動;伝統的な国連の平和維持活動;攻撃的軍事力の行使や威嚇を伴わない選挙監視や民生警察を中心とする“第2世代型second generation”PKO;人権理論;安保理の手続問題等々、他のの多くの問題にも本書は検討を加えている。

しかし、本書ではこれらのテーマについて詳細に論じてはいない。

安保理が人権を守るために軍事行動を許可したとき同理事会は“公平性impartiality”の原則を侵害しているか否かを論じている。

第7章は、人権に関連した各種の目的を達成するための安保理による、又は安保理が授権した武力の行使やその威嚇の法的・倫理的正当性を検討し、安保理がいつどういう条件で武力行使やその威嚇を許可できるのか、またその軍事力はどういう風に調達するかについて提言している。

第8章では、安保理とその加盟国が人権侵害事件に軍事的に介入することが本当に法的・道徳的に義務付けられているのかどうか ― また人道的軍事行動を加速するために緊急展開部隊のような実効的機構を設置することを義務付けられているのかどうかという点に視点を移している。

第9章では、人道的な軍事的任務を引き受ける国連が授権した多国籍軍の指揮・構成について検討している。

第10章では、安保理の意思決定の実行に目を向け、特に常任理事国の拒否権行使の改善や安保理内での協議の改善の問題に言及している。

第4部第11章では、安保理の許可の無い干渉、特にNATOによるユーゴ空爆の合法性について論じている。 


チェチェンニュース Vol.03 No.17 2003.04.19発行部数: 923部チェチェンで何人目が消されたか?〜ユシェンコフとチェチェン人の死をめぐって〜

●機能しない国連人権委

4月16日、ジュネーブで開かれている国連人権委員会は、チェチェンでの人権問題について、主にロシア政府の責任を追及する内容の決議を否決した。

チェチェン問題を憂慮する関係者の間では、国連人権委員会に対する関心は下がる一方。

2001年にチェチェン問題についての決議が採択されたものの、その後は毎年否決されつづけているからだ。

●チェチェンで発見された2,879人の遺棄死体

この直前の14日、ニューヨークタイムズとル・モンドに、チェチェンの親ロシア政権が、モスクワに送付した「報告書」についての暴露記事が掲載された。

これによると、2003年に入ってからだけでも70件の殺人、126件の誘拐、19件の行方不明が報告され、52体の遺体がばらばらになって遺棄されていたのが発見された。

この3年間の親ロシアの非常事態省の記録では、2,879人の遺棄死体が、49箇所で掘り出されたという。

昨年1年間にチェチェンで殺害された人数は1,314人にのぼる。

NYT/ Crime Reports Defy Russian Claims of Greater Calm in Chechnya
http://www.nytimes.com/2003/04/14/international/europe/14CHEC.html

カディロフ行政長官を中心とする親ロシア政権は、ロシア軍のチェチェン侵攻による副産物だ。

しかし、チェチェン人への虐待と虐殺が発見されるたびに、同じチェチェン人から突き上げられ、基盤が弱まる。

今回の報告書は、連邦中央に対して現状を報告することで、状況を改善させたいという願いのにじみ出たものだろう。

ロシアのヤストルゼムスキー大統領補佐官は、この報告書の存在については「ダーとも、ニエットともお答えできない」という立場だ。

ロシア検察庁のフリジンスキー副長官は、「残念なことに、多数の人々が行方不明になっているのは事実だ」としながらも、「そのうちある部分は、チェチェンの独立派が誘拐している。

遺棄された遺体を照合すべく努力中だが、民間人かそうでないかはまだわからない」と発言。

翌15日、チェチェン親ロシア政権のハミードフ副首相は、暴露された報告書の存在を否定しつつ、第一次、第二次のチェチェン戦争における行方不明者数は2,500人以上に上るとした。

消されたのは3千人前後なのか、それともチェチェン人たちの言うように10万人以上なのか。

うち、どれだけが兵士で、民間人なのか。

報告書が述べている人数は、発見された遺体の統計と、誘拐され、行方不明になった人々の家族の申告を元にしている。

最低限言えるのは、「チェチェンでは、ここ3年間で、2800体以上のチェチェン人の遺体が遺棄された。

その多くは民間人と思われる」ということだ。


●ユシェンコフの死をめぐって

4月17日、モスクワで、セルゲイ・ユシェンコフ下院議員が何者かに射殺された。

ユシェンコフ議員は、人民代議員時代から10年以上の任期を務め、議会の安全保障委員会のメンバーだった。

ここ9年間でロシアで殺された議員は同議員で9人目になる。いずれの事件も解決していない。

モスクワタイムス/ Liberal Russia's Yushenkov Shot Dead:
http://www.themoscowtimes.com/stories/2003/04/18/001.html

午後6時、少なくとも2人の犯人が、車を降りて自宅のアパートに入ろうとした議員の背中に4発の銃弾を打ち込んで殺害した後、現場に消音器のついたピストルを捨てて逃げた。

警察当局は「プロの犯行とみて間違いない」としている。

何人かの関係者の証言では、議員がビジネスに関わっていないことから、そういった面での恨みによるものとは考えられない。

ユシェンコフのあとには、妻と25歳の息子、19歳の娘が残された。

同じ会派「自由ロシア」に属するユーリー・ルイバコフ議員は、暗に、政府が犯行に関与しているという見方を示す。

「ユシェンコフは、1999年のアパート連続爆破事件への、連邦保安局(FSB)の関与を追っていた。

この事件は明らかに、政治的な意図による暗殺だ」 問題のアパート連続爆破事件は、チェチェン人による犯行と断定され、ロシア軍によるチェチェン侵攻のきっかけになった。

いまだに犯人は特定されず、逆に当初から、ロシア連邦保安局の関与が疑われつづけている。この事件の犠牲者は300人以上にのぼる。

アパート連続爆破事件:
http://www9.ocn.ne.jp/~kafkas/archives/1999moskva.htm

ユシェンコフ議員は、2001年にはセルゲイ・カバリョフ下院議員やエレーナ・ボンネル女史らとともに「チェチェン戦争終結と平和構築委員会」に参加し、和平交渉を通じたチェチェン戦争の終結をアピールしている。

チェチェンとモスクワで、この4年間にいったいどれだけの人命が、チェチェンを巡って失われたことか。

死亡者数ひとつで当局者が右往左往する事実は、それだけチェチェンで都合の悪いことが起こっていることを示している。

本当の人権状況が国際社会に漏れた場合の影響は計り知れない。

また、立法府の議員が次々暗殺され、すべて未解決というモスクワの状況は異常だ。

チェチェンの大統領であるマスハドフは、最近のインタビューで「チェチェンで戦争を続ければ、ロシアは崩壊する」と答え、和平交渉の準備があることを重ねて表明した。

確かにチェチェン問題は、ロシア社会の根幹を揺さぶりつづけている。(2003.04.19 大富亮/チェチェンニュース)

朝日新聞/ロシア大物下院議員が射殺される モスクワで :
http://www.asahi.com/international/update/0418/007.html

ロイター/ユシェンコフ議員の殺害現場写真:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030418-00000670-reu-int.view-000

■MdMプレスリリース/「国民投票は許しがたい悲惨な結果」

4月10日、国際NGOのメドゥサン・ドゥ・モンド(MdM)は、3月に行われたチェチェン国民投票についてのプレスリリースを発行した。

MdMはチェチェンに監視員を派遣し、かなり具体的に報告している。

一部を紹介。

「メドゥサン・デュ・モンドの調査員は、その他にも多くの不正を確認・目撃した。

3月23日午前10時のラジオニュースで、ペルヴォマイスカヤ通りの第7学校に設けられた投票所前には、投票を待つ長い列ができていると報道していたが、5分後に現場に到着してみると投票所前には武装した警備員しかおらず、投票所内にも4-5人の投票者がいただけだったと報告している。

さらに、スタロプロミスロフスキ地区の投票所選挙委員会直属の立会人は、有権者が同投票所へやってきた有権者は300人弱であった旨、委員会に伝えたが、夕方の公式発表による同投票所での投票者数は2,185人となっていた。

メドゥサン・デュ・モンドの調査員に同行したチェチェン人たちは、今回の投票の馬鹿らしさを証明するために、意図的に複数の投票所で何回も投票してみた」


● ロシアとチェチェン、そして日本 文と写真:フリージャーナリスト 山口花能)
 
国際問題というと一番関心を持たれているのは、2003年のイラク戦争開戦以来、現在もイラクであると思います。

経済、軍事などあらゆる面で日本と深い関わりのある米国のやっている戦争ということで、イラク情勢が重要なのは事実です。

しかし、情報の少ない中で悲惨な事態がすすんでいる戦争があります。1991年のソ連崩壊後、ロシア連邦からの独立を求めたチェチェンをロシアは断固として弾圧し、’94年にはついにチェチェンに軍事侵攻、第一次チェチェン戦争が勃発しました。

その後短い停戦期間(’96〜’99年)をはさみ、’99年に始まった第二次チェチェン戦争は現在も続いています。

94年から現在までの約10年間で、少なくとも20万人以上のチェチェン民間人が虐殺され、3万人以上が行方不明に。

約30万人が難民として国外流出しました。

戦争では無差別な空爆、虐殺が起き、ロシア兵による深刻な人権侵害(誘拐、拷問、殺害、チェチェン民間人にゲリラの疑いをかけて誘拐し、家族に身代金の要求をする、拷問の末に死んだチェチェン人の遺体引き取り金を家族に要求する…)は今現在も続いています。

ロシア大統領プーチンは厳しい情報規制をひき、チェチェンから国内外ジャーナリストを締め出すほか、ロシア国内の主要3大TV局を政府管理として、北オセチア学校占拠事件の際も生中継はせずに娯楽番組を流し続けたり、人質の数を実際より少なく報道するなど、ロシア国民の耳もふさいでいます。

その上で、海外にも(もちろん日本にも)送るのは官製報道ばかりなため、ロシアの報道体質を知らないと、虚偽の情報を信じさせられることになるのが現状といえるでしょう。

チェチェン独立派大統領であるアスラン・マスハドフが先日(2005年)3月8日に、ロシア軍の掃討作戦中にチェチェンの村で殺害されたとき、多くの人が驚きました。

それは何故かというと、マスハドフは、一貫してロシアとの和平交渉を主張してきた人物だったからです。

そして、1991年。ソビエト連邦の崩壊とともに、チェチェンはロシアの枠から離脱を謀る。

だがこれに対し、ロシア連邦大統領エリツィンは、武力を持って弾圧を謀った。

その結果、1994年に勃発した第一次チェチェン紛争では、チェチェン人8万から10万人が死亡した。

なぜロシアがチェチェンの独立を拒み、武力を投じたかは分かりやすい。

1991年というロシア連邦にとって非常に微妙な時期にチェチェンの独立を許すことになれば、他の共和国も独立を推し進め、ロシア連邦という国の体制が維持できなくなると踏んだからだ。

そして、チェチェンの独立はロシア政府の目の敵にされた。

1999年。第二次チェチェン紛争が勃発する。

そして、ロシア軍によるチェチェン人の大量虐殺が始まる。

チェチェンのゲリラ戦術に業を煮やすロシア軍は、掃討作戦として51万人もの民間人を殺害したり、テロリストをかくまっているとして村中の男性を逮捕し、そのうちの多数を殺害するなど、非人道的な行動を起こしている。

旅客機を乗っ取り、学校を占拠300人の子供の命を奪う行為したチェチェン人のした行動は、確かに非難されるに値する。
 
だがそれは、ロシアがチェチェンで行ってきた事に対する反動ではないのか?

51万人もの民間人を殺害したことは忘れて、チェチェンのみを批判するのは報道のあり方として問題があるのでは
ないか?


●チェチェン戦争とはどんな戦争か?

ロシア連邦軍には、戦車やヘリコプター,ミサイルが装備されているが、チェチェン側には銃や小型の爆弾しか持っていない。

非常に軍事力に大きな差のある戦争である。

そのためチェチェン側はゲリラ戦を展開し、村や山に潜んで戦うといった格好だ。

ゲリラ戦に対してロシア軍は、掃討作戦という事で一つの村の住民を全員拘束して尋問したり、誘拐したり、時には殺害したりなどしている。

NGOの報告によれば、チェチェンの各地に5万人もの死体が捨てられているそうである。

米軍の指揮するイラク戦争とは大きく異なり、報道規制や記者同行の制限などが行われているため、現状や正確な数などは知りようがない。

いわば隠された戦争でもある。

実際、女性がレイプされたり、集団虐殺が行われたりしている(サマシキ村では村ごと全員殺害された)が、この情報は一部のジャーナリストやNGO関係者しか知らず、なぜか多くの人の耳に入ることはない。

これがチェチェン戦争なのである。


 
●各国の反応

…アメリカ政府は以前からチェチェン戦争は人権被害だとしてプーチン政権を批判してきた。

しかし、2001年9月11日の同時多発テロ以降、アメリカの掲げた「対テロ戦争」にロシア側が同調したため、現在は批判よりは同盟国として評価するに至っている。

「ロシアはチェチェンにいるテロ組織と戦っているんだ」と言われれば、誰も批判できないのが現在の国際情勢である。

ではEU諸国はどうか。

EU諸国は、ロシアが石油や天然ガスなどの豊富な資源を持っているため直接批判はしていない。

人権委員会や裁判所などでは公正に判断しているようだが、堂々と批判する国は今のところない。

それに2004年のマドリード列車爆破事件や2005年7月のロンドン同時爆破テロなど、アルカイダが関係したテロが発生すれば、「チェチェンにはイラクからたくさんのテロリストが入ってテロを企てている」と言い続けてきたロシア政府をますます批判できなくなってきている。

また日本はというと、元々、在日外国人に対する差別や男女間の差別的雇用格差、また世界から児童ポルノ天国だと批判されるほど人権問題に対して疎い国でもあるし、石油パイプラインの敷設ルート問題や北方領土問題があるため、おそらく批判はしないだろう。

それとも単にチェチェンを知らないだけなのか。

ぜひとも各国首脳に訊いてみたい。

アメリカ政府は答えに困るのではないだろうか。対テロ戦は大事だが、人権も大事。。。


●ジェノサイドか?

…チェチェンを知る関係者の多くは、このチェチェン戦争はジェノサイド(民族大虐殺:Genocide)だと言っている。

ジェノサイドの例として有名なのは、第2次大戦でナチス=ドイツが行ったユダヤ人大虐殺(ホロコースト:Holocaust)で、この時は確認されているだけで597万人のユダヤ人が殺害された。

分母が少ないのでこの数にはまったく及ばないが、およそ150万人いたチェチェン人のうち、約20万人が戦争で死亡している現状を踏まえれば、当然といえば当然ではないだろうか。

一部には第2次大戦のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を例える人もいる位である。

ジェノサイドの定義としては、ジェノサイド条約(Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide)の第2条で国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図を持って行われた殺人、加害などをジェノサイドとして定義している。

ロシア連邦VSチェチェン人という戦争の構図を当てはめると、チェチェン戦争はジェノサイドに該当する。

この事に関してロシア政府は、「我々が戦っているのはあくまでチェチェンにいるテロリストだ」としているが、ではチェチェンには20万人ものテロリストがいたというのだろうか。

女性や赤ん坊のテロリストが銃を持ってロシア軍に向かって行ったと言うのだろうか。

物理的に考えて女性のテロリストはあり得ても、赤ん坊のテロリストはあり得ない。

20万人も誤って殺したか、サマシキ村のように無差別に殺したか、ジェノサイドとして意図的に殺したかのいずれかである。






「罪意識扶植計画」とは何か

実はアメリカが日本に与えた致命傷は、新憲法でも皇室典範でも教育基本法でも神道指令でもありません。

占領後間もなく実施した、新聞、雑誌、放送、映画などに対する厳しい言論統制でした。

終戦のずっと前から練りに練っていたウォー・ギルト・インフォーメーション.プログラム(WGIP=戦争についての罪の意識を日本人に植えつける宣伝計画)に基づいたものでした。

この「罪意識扶植計画」は、自山と民主主義の旗手を自任するアメリカが、戦争責任の一切を日本とりわけ軍部にかぶせるため、日本人の言論の自由を封殺するという挙に出たのです。

これについては江藤淳氏の名著『閉された言語空間」(文春文庫)に余す所なく記されています。

この「罪意識扶植計画」は、口本の歴史を否定することで日本人の魂の空洞化をも企図したものでした。

ぼっかりと空いたその空地に罪意識を詰めこもうとしたのです。

そのためにまず、日本対アメリカの総力戦であった戦争を、邪悪な軍国主義者と罪のない国民との対立にすり替えました。

300万の国民が米軍により殺戮され、口本中の都市が廃墟とされ、現在の窮乏生活がもたらされたのは、軍人や軍国主義者が悪かったのであり米軍の責任ではない。

なかんずく、世界史に永遠に残る戦争犯罪、すなわち2発の原爆投下による20万市民の無差別大量虐殺を、アメリカは日本の軍国主義者の責任に転嫁することで、自らは免罪符を得ようとしたのです。

人道を掲げるアメリカにとって、人類初の、人類唯一の、原爆投下は申し開きのできない悪夢中の悪夢なのです。

この2発で、アメリカはあのヒットラー、スターリン、毛沢東という冷酷な殺人鬼と同列に置かれるからです。

日本軍は真珠湾攻撃でも軍事目標以外のものをいっさい標的としませんでした。

アングロサクソンが日本の立場にあったなら必らずアメリカヘの復讐を誓うでしょうから、日本の復讐を恐れ、徹底的に言論を封殺し、軍部や軍国主義者を憎悪の対象に据えた、という側面もあるでしょう。

1999年末、アメリカのAP通信社は、世界の報道機関71社にアンケートを求め、20世紀の10大ニュースを選びました。

5位がベルリンの壁崩壊、4位が米宇宙飛行士による月面歩行、3位がドイツのポーランド侵攻、2位がロシア革命、

そして何と第1位になったのが広島・長崎への原爆投下でした。


これだけの非人道的行為を、息も絶え絶えの日本に行なったのです。

1000万人を救うために20万人を

アメリカの言い分は「ポツダム宣言を承諾せず徹底抗戦を続ける日本に降伏を促し、犠牲者が米兵だけで100万、両国合わせて1000万にも上るだろう本土上陸作戦を避けるために仕方なかった」というものです。

100万を救うために20万を殺したという理屈です。

私がこれまで原爆について話したことのある何人かのアメリカ人もみな類似のことを言っていました。

2009年にアメリカのある大学の行なった世論調査では、61%のアメリカ人が「原爆投下は正しかった」と答えたそうです。

65年が経ってもこうなのです。

驚きです。

時系列で述べてみましょう。

まず1944年9月のルーズベルトとチャーチルの会談で、開発中の原爆を日本に投下することが決定されました。

ドイツはなぜか対象から外されたのです。

翌1945年の5月にはルーズベルト大統領の指示で編成され秘密の投下訓練をユタ州で行っていた実行部隊が、サイパン島のそばのテニアン島に移動しました。

同年7月16日、米英ソによるポツダム会談の始まる前日、ルーズベルト大統領の後継者であるトルーマン大統領のもとにニューメキシコでの原爆実験成功のニュースが伝えられ、大統領は大喜びしました。

そのたった9日後の7月25日には、トルーマン大統領の承認を得て陸軍参謀総長代理のトーマス・ハンディ大将から「8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆投下をせよ」との命令が下されました。

そして米英中(後にソ連が加わる)によるポツダム宣言が発表されたのはその翌日の26日です。

鈴木貫太郎首相がそれを「無視する」と発表したのはポツダム宣言の2日後の28日でした。

要するに、「日本がポツダム宣言を拒否したから」どころか、ポツダム宣言の発表以前に原爆投下命令は下されていたのです。

またトルーマン大統領は、日本が中立条約を結んでいるソ連を通し終戦へ向けた和平工作をしていることを、スターリンから耳にしていました。

暗号解読によっても知っていました。

国体の維持、つまり天皇の地位さえ約束すれば疲弊し切った日本は降伏する、ということを元駐日大使で知日派のグルー国務次官から5月の段階で聞いてもいました。

日本の徹底抗戦によりこれこれの犠牲が出るだろう、というのも嘘なのです。

それではなぜ実験で成功したばかりの原爆を大慌てで落とすことになったのでしょうか。

ルーズベルトの急死により1945年4月に後を継いだトルーマンは、共産主義に理解をもっていた前任者と違い大の共産主義嫌いでした。

彼はその年の2月に米英ソ間で行なわれたヤルタ会談での秘密協定を初めて知りびっくりしたのです。

ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦すること、その代りに満州にある日本の権益、南樺太、千島列島はソ連に引き渡す、というものです。

この通りになったらソ連は極東および占領後の日本に大きな影響を及ぼすことになります。

ぜひソ連の参戦前に日本を降伏させねばならない、と考えました。

実際、ドイツ降伏(1945年5月8日)後のヨーロッパでは、ソ連が東ヨーロッパで共産党政権を次々に作るなど勢力を急速に拡大していました。

そのためにはできるだけ早期の原爆投下が望ましい。

さらに戦後の米ソの覇権争いを予想した大統領やバーンズ国務長官は、原爆の恐るべき威力を示しソ連を威嚇しておくことが重要とも考えました。

何も都市の上に落とさなくても威力を示すことができる、とアインシュタインを初めとする科学者達が反対しました。

アイゼンハウアー将軍さえ7月20日に、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官に「日本はすでに敗北しており原爆はまったく不必要」と進言していました。

大統領は聞く耳を持ちませんでした。

ドイツ降伏は5月8日ですから3カ月目は目前に迫っています。

「なるべく早く投下しなくては」とトルーマンは焦りました。

この新型爆弾の現実の威力を知りたいとも強く思っていました。

ところが、日本がポツダム宣言をあっさり受講してしまえば投下のチャンスはまったくなくなります。

そこで日本がすぐに受諾しないよう、当初はポツダム宣言の草案にあった「国体維持」の言葉をわざわざ削除して投下準備のための時間をかせいだのです。

見事にトルーマンのぎりぎりの曲芸は成功しました。

8月の6日と9日に原爆を落とすことができ、同8日にソ連が参戦し、14日には日本がポツダム宣言を受諾しました。

その後になってスターリンは樺太と千島を占領し、さらには北海道北半分への進攻まで要求しました。

トルーマンはこれを拒絶し、朝鮮半島の38度線以南への進攻も阻止したのです。

核の威力でした。

要するに原爆投下は、専らその実際の威力実験および終戦後のソ連との覇権争いを念頭に入れたものだったのです。

怒りを通り越して嘆息の出るような話です。

日本人の誇り 藤原正彦著 文春新書刊より





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